信仰による前進
民数記13:17-14:12
モーセに率いられ、小羊の血によって出エジプトしたイスラエルの民には、神が導き入れようとするカナンの地という目的地があった。彼らはシナイ半島の荒野の道に導かれた。地中海沿岸にペリシテ人の地を通過する近道があったが、救い出されたばかりの民には耐えられないだろうと神が配慮されて、遠回りさせられたのだ。
もう一つの理由は、律法を与えようとして民をシナイ山に導くためだ。神は民に律法を与えようとされた。奴隷から贖われた民をご自身の民とするためだ。
律法が与えられ、これからというとき、カデシュ・バルネアで主はカナンの地を探れと命じられ(13:2)、12部族から1人ずつ選ばれて偵察隊(ていさつたい)が編成された。エフネの子カレブ、ヌンの子ヨシュアもその中にいた。
偵察隊は40日間かけて忠実に探索した。一房のぶどうなどの果物も証拠品として持ち帰り、モーセに復命した。彼らは異口同音(いくどうおん)に“良い地です、乳と密の流れる地です”と報告した(27節)。「しかし…」と彼らは言った。豊かな良い地であることは事実だが、住民は強い、町は堅固、アナク人の子孫ら先住民族がいることもまた事実だ。この二つの事実のはざまでどう決断するかだ。
すかさずカレブがヨシュアと共に、攻めのぼろうと提案した。カレブは「我らは必ずこれに勝つことを得ん」(30節文語)と断言した。12人中10人は、攻めのぼることはできないと言った(31節)。彼らは現実ばかり見て、共に在す主を信じるという肝心なことを忘れていた。だから自分らの弱さばかり見て、消極的・否定的な結論しか出せなかったのだ。
カレブは見るべき御方を見ていた。現実を認めないのではない。現実は現実として認め、しかし現実を超えて主が共に在すことを信じたのだ(14:9)。
10人の不信仰の報告は、全会衆を不信仰に陥れた(14:3)。エジプトを出なかったほうがよかったとさえ言った。贖いの恵みまで忘れたのだ。目前に置かれたカナンの恵みを、その程度に低く見積ったのだ。これが不信仰の結果だ。
主は怒られた(14:11,12)。その後、彼らは40年の荒野の旅を経なければならなかった。すぐに入国できたのに、みすみす機会を逃したのだ。
我らにも戦いがある。敵はサタンだ(エペ6:12)。並み居る悪の霊を相手に戦わねばならない。そこで必要なのは信仰だ。現実から目を放して、成し給う主に目を注いで出ていく信仰だ。「我らは必ずこれに勝つことを得ん」とは、自信などではなく、勝利の主を信じる信仰だ。
信仰の盾とみ言葉の剣、主を信じる信仰と、み言葉に従う従順、これが我らの武器だ。これをもって主の精兵として戦いたい。主の勝利を信じて戦いたい。
カナンの地とは、我らにとっては聖潔(きよめ)の生涯を表す。些細な事でつぶやき、周囲の状況や環境に左右され、自己憐憫に陥り、心から人を愛することができないという、そのような自我を十字架につけ、キリスト内住の恵みをいただいて、感謝と喜びで主に従う歩みに入りたい。そしてこの恵みによってサタンと戦いたい。
終わりは近い。勝てる者になりたい。そのために、信仰による前進をしていこう。