主を仰ぎ見よ
イザヤ45:1-25
神の選びの民イスラエルは、背信の罪のため、神の裁きとして、紀元前586年にユダ王国は新バビロニア帝国により滅亡し、エルサレムの民は捕囚を強いられた。預言者イザヤの預言どおりだった。しかし、憐れみに富む神は、ペリシア王キュロスの心を感動させ、解放令を出させられた。イスラエルの民は70年後に捕囚から解放され、エルサレムに帰還した。これもやはりイザヤの預言の通りだった。神の御言葉は必ずその通りに成る。
2~7節に、その素晴らしい回復の約束が語られている。長い捕囚生活で、真の神である主を知らない者になったイスラエルの民に、恵みが与えられるという約束だ(4,5節)。このような神はほかにはいない(5,6,14,18,21,22節)。これは我らにそのまま当てはめられる。
我らは主を知らなかった。しかし主は我らを知り、愛してくださった。神は御子を「宥めの供え物」(口語訳で「あがないの供え物」)(1ヨハ4:10)とされた。イエスは神の怒りを我らに代わって受けられた。その十字架を見上げれば、救いは完成している。功なき我、無力な私が、ただ十字架を仰ぎ望むだけで罪の赦しの救いが与えられる。我らを救い得るのは、十字架にかかられたキリストだけだ(使徒4:12)。必要なのは、悔い改めと信仰だけだ。
チャールズ・スポルジョンが、1851年に22節のみ言葉で救われたエピソードは有名だ。彼は救われるために何かをしなければならないと思っていたが、ただ十字架のキリストを仰ぐだけだとわかった。彼はそのようにして救われた。これは昔の話ではない。“仰ぎ望めば救われる”は場所や時代を超えて、福音だ。十字架を仰ぎ望む信仰によって、罪からの救いが与えられる。
この救いは、過去の罪の赦しにとどまらず、救われて後も神に逆らう汚れからの聖潔(きよめ)まで含む全き救いだ。キリストの使徒パウロは、内に住み込んでいる性質としての罪に悩んだ(ロマ7:15,17-20,24)。しかし、彼はキリストの内に解決を見出した(ロマ6:611、ガラ5:24、同2:19b,20a)。自我の磔殺(たくさつ)とキリスト内住の信仰に開かれたのだ。我らも、主を仰ぎ見てこの信仰に開かれる。
モーセの時代、荒野で蛇が掲げられ、「仰ぎ観(み)なば生(いく)べし」(民21:8文語)と語られた。イエスはニコデモに「人の子も上げられなければなりません」(ヨハ3:14)と言われた。十字架に上げられたキリスト、十字架に流された血潮を仰ぎ見て、我らは全き救いをいただくことができる。
“汝ら我を仰ぎ望め。さらば救われん。さらば潔められん”と主は我らに語り給う。我らの神の前における立場はどうなっているか。神に対する態度はどうか。内に主をいただいて、「わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします…」(詩40:8)と絶えず言いうる魂にされたい。
救いと聖潔を得させるキリストの十字架を信じよう。困難や試練に会うときも、十字架を仰ぎ見る信仰によって勝利することができる。内に恵みを得て、主を仰ぎ望みつつ堂々と胸を張って生きよう。