礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2018.08.26

キリストの弟子

ルカ9:51-62

イエスの3年半の公生涯は大きく3区分できる。初期の伝道、ガリラヤ伝道、ユダヤ伝道だ。ユダヤ伝道は十字架を指してのお働きだった。共観福音書では区切りが明確だ(マタ19:1、マル10:1、ルカ9:51)。特にルカは印象的な一句で、「イエス天に挙げらるる時満ちんとしたれば、御顔を堅くエルサレムに向けて進まんとし」(文語)と、お覚悟のほどが伺える。

十字架を指してエルサレムヘ進み行かれるイエスは、途中、サマリヤ人の村を通過された際、村人の拒否的な対応を受けられた。弟子のヤコブとヨハネは、彼らへの焼き討ちを提案し、他の弟子たちも同調した。これが義憤ではないことが、元訳で56節の前に入っている一句からわかる。「爾曹(なんじら)の心如何(いか)なる乎(か)を自ら知ざるなり。人の子は人の命を滅す為に来ず惟(ただ)これを救う為なり」とある。

主は弟子たちの心を見透かしておられる。主が受け入れられなかったことへの義憤ではなく、自分たちのプライドが傷付けられたことへの私憤だったのだ。外はどれほど繕っても、内にあるものが出てくる。主は内側をごらんになる。動機が問題なのだ。

57節以下に、三人の弟子志願者が登場する。一人目は、自分から弟子たることを申し出た(57節)。召しもないのに簡単に立ち上がる人だ。主のお答えは、「人の子には枕する所なし」(58節文語)だった。主に従う道は平易ではない。むしろ困難や試練が多い。主からの召しがなければ耐えられない。困難や試練に遭って、簡単に放棄されては、主の栄光にならない。主は召しのない者とは伴われない。

二人目は、主のほうから「我に従え」(59節文語)とお声をかけられた。それに対して彼は、まず父を葬りに行ってからと条件を出したが、主は、死人を葬ることは死人に任せるように言われた(60節)。冷酷なのではない。彼の父はまだ健在で、今死のうとしているのではないのだ。高齢な父を最後まで面倒を見て、その後で従うと彼は言うのだが、おそらく彼には他にも兄弟がいて、父の面倒は他の兄弟に任せられるのだ。福音宣教のわざは、主に召された者にしかできない。主は、お前にしかできない事のために、今直ちに従えと言われるのだ。主の弟子になるためには、不問即座の服従が求められるのだ。

三人目も、家族に別れを告げてから…と、やはり条件付きで志願した(61節)。これから主の弟子になり、もう帰郷できないかもしれないのだから、それくらい許してもいいのでは、と思うだろうか。主のお答えは、「鋤に手をかけてからうしろを見る者は…」(62節)という非常に厳しいものだった。ここでも主は、内心を見ておられる。情にほだされて、従う志が鈍らされる可能性があるという彼の弱さをご存じだったのだ。主に従うためには、愛情の聖別が必要なのだ。

主に従う道は、①困難に対する覚悟、②不問即座の服従、③愛情の聖別が求められる。「我に従え」との御声を聞いて、すぐに従いたい。ぐずぐず延期せず、妨げる情を献げて、きっぱりと切れて従いたい。主は、従うことを妨げるものがないか、主よりも自分や富を愛する思いなどがないか、私たちの心の内を見給う。

主に従うためには、肉、情、欲が始末されていなければならない(ガラ5:24口語)。自分の頑張りで進もうとする肉、自己を憐れみ、弱さを正当化しようとする情、内から吹き出す抑え切れない欲が十字架に付けられ、キリスト内住の恵みをいただいて、主に従いたい。

十字架の血潮で聖められ、従いやすい魂になりたい。主は、私たちがどれだけ真剣か、本気かをごらんになる。「なんじらの心いかなるかを…」とのみ言葉によって、自分の内にどういう心があるかを省みよう。いつ、どこを主に見られてもよい魂で主に従いたい。