神に会う備えをせよ
アモス4:1-13
本書が記された背景は、北イスラエル王国の第13代王ヤロブアムⅡ世の統治下だ。国はソロモン以来の繁栄を見せたが、堕落も顕著だった。王をはじめ民は、ヤロブアムⅠ世が取り入れた偶像礼拝から離れず、道徳的に退廃していた。
そのような国政を預言者ホセアとアモスが非難し、神の裁きを警告した(2節)。しかし、王は聞き入れず、民は堕落した生活を続けた。神は、アモスを通して愛をもって再三警告を発せられたが、イスラエルはいっこうに応じなかった(6,8,9,10,11節)。
「あなたの神に会う備えをせよ」とは、現代の我らへのメッセージだ。我らが神に会うためになすべき備えとは何か。
1.救いの確認
キリストによる救いを確かに得ているか、義認が明確かだ(2コリ5:21)。罪なき神の御子キリストが、神から遣わされ十字架で死なれた。イエスは極悪人のようにして、神からも捨てられて死なれた。我らの救いのためだった。
神のかたちに創造された我らは(創1:26,27)、神との自由な交わりに生きる者だったが、サタンに誘惑されて罪を犯し、神のかたちは喪失して滅びる者になった。そのような我らを神は惜しまれ、愛と憐みをもって救いの手立てを講じ給うた。それがキリストだ(ヨハ3:16)。イエスは当時のユダヤの指導者らに妬まれ、処刑されたのだが、実は我らを救うための神の計画だった。
このキリストの十字架の事実の前に、罪を認め悔い改め、十字架を信じて、罪からの救いが与えられた。信仰による救い(ロマ3:24、エペ2:8,9)、赦罪-義認-神との和解-新生の最初の救いだ。義とされた恵みが明瞭か。もし不確かなら、主の前に出よう。赦罪-義認-神との和解-新生の救いをはっきりといただこう。
2.聖潔の信仰
義認が明確になった魂は、御言葉を謙虚に聞いていけば、必ず己の醜さに気づく。口ではどうとでも言うが、信じていない、従っていない実際の姿が分かってくる(4,5節)。神は形だけの犠牲を喜ばれない。我らの魂がそのままで終わっていいはずがない。神は御子の血をもって贖われた。我らを全く聖くしようとしておられる。真に信じ、真に従う神の民にしようとしておられる。
自己の真相を認め、このままでは嫌だと厭い、砕かれた魂で主の前に出よう。意志と信仰をもって古き人を十字架につけ(ガラ5:24,2:20)、キリスト内住の信仰をいただこう。そうするなら、内なるキリストによって、真に信じ、喜んで従う魂に造り替えられる。聖潔(きよめ)の信仰は、再臨信仰に繋がる。恵みによって、再び来られる主の前に安らかな心で立てる(コロ1:27)。まさに神に会う備えができるのだ。
3.救霊の重荷
全き救いを得た魂は、救霊の愛に燃やされずにおれない。まだ真の神を知らないまま、滅びつつある魂を黙って見逃せない。アブラハムの祷告をもって執り成そう(創18:,哀2:19)。そして証ししよう(マル5:19)。再臨の主の前に、一人でも救われた魂を携えて立ちたい。
4.リバイバルへの渇望
リバイバルとは信仰復興のことだ。眠っていた者が目覚めさせられ、離れていた者が戻らされ、回復させられる。これは神のみわざ、聖霊のみわざだ(イザ43:19)。
サタンも働く。彼はこの終わりの時代に、あらゆる手を尽くして教会とクリスチャンを必死に攻撃し、誘惑してくる。我らを眠ったまま、落ちたままにさせておきたいのだ。しかし、我らが祈るなら、神のみわざが現される。サタンは敗北し、教会とクリスチャンは覚醒される。
神に会う備えをしよう。「わたしがあなたにこうするから」と、最後の審判を主は主権をもって執行し給う。時はそれほど残されていない。主の再臨は近い。自らの救いを確かにしよう。聖潔の信仰を確実にいただこう。