主イエスを信じなさい
使徒の働き16:16-34
主の弟子たちに与えられた、聖霊によって主の証人となるという約束(1:8)は、着実に成就しつつあった。第2回伝道旅行の途中の事だ。聖霊にアジア宣教をとどめられ、さらにビティニアに進むことを禁じられ、パウロたちはトロアスに行った。そこでパウロは夜、マケドニア人の叫びを聞き(9節)、ピリピ伝道に赴いた。福音が初めてヨーロッパ大陸に渡ったのだ。
まずティアティラ市の紫布商人リディアが救われ(14,15節)、続いて占いの霊に憑(つ)かれた女奴隷が救われた(18節)。ピリピ開拓伝道の祝福だった。
これがきっかけで、女奴隷で金儲けをしていた主人たちの恨みを買い、パウロとシラスは逮捕され、告訴され、むち打たれ、投獄された。これからという時にこのような事態になった。福音が進展しようとする時に、必ず妨げるものが起こる。しかし、神の目には前進のための飛躍の時だった。万事を益と変え給う神の恵みだ。
この恵みを知っていた獄中のパウロたちは、真実の神への信頼から、祈りと賛美をささげた。彼らが祈ったのは、獄中から救い出されることではなく、福音が前進すること、そして神の栄光が現されることだった。
また彼らが感謝し賛美したのは、御名のために辱められるに値する者とされたことだった(5:41)。主の苦難にあずかる者、福音のために苦しむ者となったことを感謝したのだ。そこには自己憐憫(れんびん)も悲壮感もなく、ただ神に信頼し、御旨にのみ従う聖徒の姿だった。
祈祷と賛美は我らの武器だ。主を信じるが故に、祈り、賛美することができる。八方ふさがりでも天は開いている。他に喜びの材料がなくても、十字架の主ご自身を喜べる(ロマ5:11)。
囚人たちも彼らの祈りと賛美に聞き入っていた。真実な祈りと心からの賛美は、周囲の者に感化を与える。祈りと賛美は、福音を聞いたことも無い一般の犯罪人たちの心を打った。救われる望みがないと思われる者でも、真実な祈りと賛美は必ず届く。
祈りと賛美は何よりも神に届いた。突然の大地震で獄の扉が開き、囚人たちの鎖が解けた。囚人が脱走したと思い込んだ看守は、とっさに自害を計ったが、パウロが制止した。
看守に救われたいという深刻な渇きが起こされ、パウロに「われ救われん為に何を為すべきか」(30節文語)と問うた。彼が願った救いとは、自分の罪からの救いだった。彼は、自分が遭遇した出来事は、人間のわざではない、神のみわざと分かった。神のみわざを見れば、いかに罪深い者かという自分の姿が分かる。そこから救いへの渇きが起こされる。
目を見張る奇跡を見なくても、御言葉によって光が当てられたら、認罪と渇きが起こる。そして御言葉は我らの罪の心を開く(詩119:130)。御言葉の力だ(ヘブ4:12)。真摯(しんし)に御言葉の前に出れば、光が当てられ、救いへの渇きが起こされる。御言葉の前に素直でなければ、御言葉は覆われたままだ(2コリ3:15,16)。
「何を為すべきか」との問いに対する答えは、「信ぜよ」だった。救われるために必要なのは行為ではなく、信仰だ。悔い改めと十字架信仰だ。まず自分が救われることが先決だ。そして自分を通して家族が救われていく。自分が主の前にどういう存在になっているかだ。
主は成し給うと単純に信じる信仰をもって神の御前に出よう。家族の救いのために祈ろう(ヨシ24:15)。御言葉は真実だ。一人にみわざを始め給うた主は、必ずみわざを進め給う。近づいている主の再臨に備えて、自分自身の救いの達成のために(ピリ2:12)、家族の救い、リバイバルのために祈ろう。
※本日は、機器の不具合のため、前半部分の映像をご覧頂くことができません。あしからずご了承ください。