永遠の栄光を望みつつ
Ⅱコリント4:16-5:10
我らの回りには、落胆させられたり、勇気を失ったりする要因が多い。パウロもそうだった。しかし彼は落胆しなかった。それは、内なる人、つまり信仰が日々新しくなるからであり(4:16)、また、重い永遠の栄光が約束されていたからだ(4:17)。
パウロの遭っていた苦難は決して軽くはなく、むしろ耐えがたい苦難だった(11:23-27)。しかし、この肉の体が主と同じ栄光の姿に変えられるという、のちに約束されている栄光の重さに比べれば、取るに足りなかったのだ(ロマ8:18)。
約束されている栄光は、それほど重い。その栄光とは、この肉の体が主と同じ栄光の姿に、栄光から栄光へと変えられるというものだ(2コリ3:18)。我らの国籍はすでに天に移されている(ピリ3:20a)。やがて体も天の処に移され、神の資産をそのまま受け継ぐ者にされる(1ペテ1:4)。これ以上の栄光はない。どっしりと重い栄光を思えば、地上の苦難は軽い。イエスもこの栄光を望みつつ、十字架の苦難を忍ばれた。
希望に満ちた生涯か、落胆の連続の生涯かは、何に目を留めるかで決まる(18節)。この世の目に見える患難は、いかに激しく、耐え難く見えても必ず終わる。しかし、今は見えない栄光は永続的だ。この永遠の、見えない栄光に目を留め、待ち望む者に、あふれる希望が与えられる。
我らの歩む世界は、目に見えない世界だ。見えない神を信じ、見えないキリストを宿し、見えない天の資産を望みつつ歩む、信仰による歩みだ(5:7)。試練や患難に遭うとき、目を見えざるに在し給う御方に目を留め、目を上に向けて歩むのだ。
パウロは、永遠の栄光を幕屋や建物になぞらえている(5:1)。肉体の命が終わると、朽ちない栄光の体が準備される。それがキリストと同じ栄光の体だ。また彼は、着物にもなぞらえている(2節)。栄光の体を上に着ようと苦悶している。
パウロが、苦難の多い厳しい生涯を送る中で、早く栄光の体をいただきたいと願うのは当然だった。栄光の体を着たら、裸のままではいない(3節)。もはや醜い恥はさらさない。罪は根底から永遠に消し去られ、神の前に聖い者になるのだ。
これほどの栄光が我らに約束されている。我らをこの栄光にふさわしい者にし給うたのは神だ(5節)。十字架の贖いの深さ、血潮の力がどれほどかがわかる。聖霊はこの栄光の希望の保証だ(エペ1:14)。
この望みのゆえに勇気が与えられる(6節)。現実の歩みには困難が多いが、栄光の望みを思い見て、内住の御霊に励まされる。こういう天的な生涯を歩めるとは、なんという恵みか。
これが信仰によって歩む歩みだ(7節)。栄光から栄光へと変えられる望みを信じて歩む者になりたい。天につける歩みをしたい。そのために、望みの保証となる聖霊を求めよう。
信仰によって歩む者になりたい。栄光から栄光へと変えられる望みを信じて歩む者になりたい。先に栄光の御国に凱旋された人々に続いて、栄光に入る日を待ち望もう。