みこころのように
マタイ26:36-46
イエスは最後の晩餐で新しい契約の約束を示され、弟子たちの足を洗われた。またユダの裏切りを予告され、ペテロの否定を予告された。
その後、主はオリーブ山の麓のゲッセマネの園へ行かれた。そこは主のいつもの祈りの場所だった(ルカ22:39,40)。主は祈りを愛された。ヨルダン川で受洗されて以来、祈らずにはやっていけない存在になっておられたのだ。
主は、弟子たちに目をさまして祈っていてほしいと、祈りの要請をされた。祈りの重要さを知っておられた主は、祈られることの力強さも知っておられたのだ。
主は「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから…」と祈られた(39節)。これまでに主は、父に対して否定的な言葉を言われたことがなかった。杯とは神の怒りだ(イザ51:17,エレ25:17)。主には、神の怒りを受けなければならない理由はなかった。
主の姿勢は終始、父への絶対的な信頼と従順だった(ヨハ5:19、8:29)。父も御子を信用され、信任された。この親密な信頼関係があったのに、主は、我らの身代わりとして杯を受けなければならなかったのだ。杯とは父との断絶だ。主は十字架上で「わが神、わが神…」(27:46)と叫ばれた。
主の十字架の苦しみは、想像以上のものだった。両手両足の傷、呼吸困難、出血による渇きなどの肉体的な苦痛があった。弟子たちに逃げられ、人々から罵られ、孤立無援という精神的な苦痛があった。しかし、それだけならまだ耐えられた。信頼する神という絶対的な拠(よりどころ)があったからだ。
その神からも捨てられるのは、耐え難い苦痛だった。主は「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」(38節)と言われたのは、父との断絶を味わわなければならないのが、死ぬほど悲しかったのだ(ルカ22:44)。この杯を主が避けたいと願われないはずがなかった。
ところが、イエスの祈りはそれで終わらなかった。「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」(39節)と祈られたのだ。最後はここに帰結した。何が何でも杯を受けたくない、と自分の願いを押し通そうとされたのではない。わが思い、わが願い、わが希望、わが計画ではなく、神の御思い、神の御願い、神の御計画を求められたのだ。
主はゲッセマネで勝利をとられた。「わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハ16:33)と言い得たのは、御旨への屈服による勝利のゆえだ。主は、すでに自分の願いを十字架に付け、祭壇に自分自身を献げきられた。だから、捕らえに来た群衆に対して、堂々と応じられた(ヨハ18:5)。
勝利の秘訣はここにある。己れを引きずっていては不勝利だ。自分を愛する己れ、自分を憐れむ己れ、献げきれぬ一物を持ったままでは敗北だ。「みこころのように…」と言いながら、わが願い、わが計画を手放そうとしない自我はないか。「心は燃えていても、肉体は弱い」(41節)と、自己正当化してはならない。結局自分が一番可愛いという自我の姿に絶望し、そこから十字架を見上げ、信仰によって“付けました”と決算しよう。そこにキリストは臨み給う。
パウロは「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで」(ガラ4:19)と言った。わが内に形造られるべきキリストの形とは、御旨への従順だ。キリストの内住をいただいたら、主のごとく従順な者になる。これこそ真の自由な者の姿だ(ヨハ8:36)。
我らもゲッセマネの祈りを自分の祈りにしたい。そこから神の栄光を現す歩みが始まる。主に信任され、主の恵みを証ししていく者になろう。謙遜と渇きと信仰をもって出ていくなら、必ず主がそういう者になし給う。