大いなる約束に期待して
ヨエル2:18-32
本書は馴染みが薄い書だが、大切なメッセージが述べられている。著者ヨエルの素性は不明だが、南ユダ王国ヨアシュ王の治世(BC.837-800年)に活動したと思われる。
時代的には平穏だったが、民は霊的に堕落し、信仰が形式的になっていた。神は裁きの警告を与えられた(1:1-2:11)。神は侮られるお方ではない(ガラ6:7)。
実際にヨエルの時代にいなごの災害が起こったが、霊的に、終りの時代の神の裁き、大患難時代の到来が預言されている。けれども、神は憐れみ深いお方だ(18節)。小羊の血でエジプトから贖い出されたイスラエルの民を、みすみす滅ぼしたくないと思われ、回復の約束を与えられた(12-27節)。主が大いなること、大いなる回復のみわざを起こされる。
主は、初めの雨と後の雨の約束を与えられる(23節)。前者は種蒔きに必要な秋の雨、後者は収穫に必要な春の雨だ。これはリバイバルの約束だ。
いなごの裁きに遭うのは民の不信仰、傲慢のゆえだ。神に責任はない。しかるに神は「償おう」と言われる(25節)。
我らはどうか。災いに遭ったのを神のせいにしないか。自らの不信仰が招いた結果と受け取る謙虚さがあるか。因果応報の法則はないが、自分の傲慢を棚に上げて、神に「償おう」と言わせて平然とする向きがないか。神にそう言わせること自体、我らの罪だ。自らの傲慢さ、不信仰と知るべきだ。
神が我らの真ん中に立ち給う(27節)。救いの勇士として、勝利の主として(ゼパ3:17)教会のただ中に立ち上がり給う。この主を知ることこそ祝福の秘訣だ。
主は「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ」(28節)と、大いなる聖霊傾注の約束を与えられる。「その後」とは、終りの時のことだ。終りの時代はもう始まっている。ペンテコステの日に、エルサレム市民を前にペテロがここから引用して、「終わりの日に」とメッセージを語った(使徒2:)。
息子・娘は預言をする。福音宣教をするのだ。年寄りは夢を見る。はかない夢ではない。確実な新天新地の夢だ。若い男は幻を見る。リバイバルのビジョンを見るのだ。「主の名を呼ぶ者はみな救われる」(32節)とあるように、人々が続々と教会に集う。そして、信仰が回復される者、新しく救われる者が起こされる。神の救いの計画の完成を垣間見せられる。これが終りの時の大いなる約束だ。
鍵は聖霊の注ぎだ。聖霊の傾注は、すべて贖われた者への約束だ。キリストの十字架の血で罪赦され義とされた者に、差別なく与えられている。例外はない。
ただし機械的にではない。謙遜と渇きと信仰が求められる。不信仰と傲慢を悔い改める心の低さ、聖霊を注いでいただかねば進めないとの渇望、主は必ずみ言葉の通りになし給うと信じる信仰だ。
終りの時と言われて、すでに2000年が経過した。長すぎることはない。神には千年は一日のようだからだ(2ペテ3:8)。“まだ来ないではないか”などと侮ってはならない。神はいたずらに実行を遅延されない。我らに対して忍耐し給う(2ペテ3:9)。
砕かれて主の前に出よう。厳しいメッセージだ。終りが近いからこそ、神が迫っておられる。真摯に受けとめ、従おう。聖霊の注ぎを求め、大いなる約束の実現に期待しよう。