栄光に富んだこの奥義
コロサイ1:15-29
コロサイ教会は、キリストを救い主として不十分とする異端の攻撃にさらされていた。それと知った獄中のパウロは、コロサイ教会員たちに、贖いとはいかに栄光に富んだものかを教えようとした。
13,14節に、クリスチャンの肖像画が描かれている。クリスチャンとは、闇の力から救い出され、愛する御子の支配下に移された者で、これ以外でも以下でもない。15節以下に、今度はキリストの肖像画が描かれている。御子とは、①全ての被造物に先だって生まれた御方であり、②万物はみな御子によって造られたのであり、③万物はみな御子のために造られたものだ。
キリストは、我らに十字架の血による平和を与え、神との断絶に解決を与え給うた(19,20節)。主は十字架に血を流し、死より甦り給うた唯一の仲保者だ。主は、罪を犯して神に敵対していた我ら(21節)のために十字架にかかり、我らを神と和解させ、御前に立てる者となし給うた(22節)。認罪-悔い改め-十字架信仰の手順を踏んで、我らは赦罪-義認-神との和解-新生の救いが与えられたのだ。
しかし、ここで疑問が生じる。救われたら「聖く、傷なく、非難されるところのない者として」(22節)主の前に立てるか、という疑問だ。21,22節を文語訳で読んで、はたと膝を打った。「汝らもとは悪しき業を行いて神に遠ざかり、心にてその敵となりしが、今は神キリストの肉の体をもてその死により汝らをして己と和がしめ、潔く瑕(きず)なく責むべき所なくして、己の前に立しめんと為し給うなり」とあった。
主のほうでは、我らをそのように立たせようとされたのだ。それを、我らの側で留めてしまっているのだ。肉の性質のためだ。愛せない、赦せない、共に喜べない、従えない、結局自分が一番可愛い…という肉、プライドが傷付けられると我慢できない、自分が中心でいないと気が済まない…という自我に振り回されたままでは、到底主の前に傷なき者として立つことなどできない。
しかし、我らは福音を聞いている。「汝らもし信仰にとどまり、これに基きて堅く立ち、福音の望みより移らずば、かく為らるることを得べし」(23節文語)。立つことができる者に主が成し給う。ただし、信仰に留まり、福音の望みより一歩も移らないなら…。
福音の望みとは、福音がもたらす望みだ。27節に直結する。内住のキリスト、栄光の望みだ。内に主を宿して、再臨の主の前に栄光の姿に化せられて立つことができる希望だ。神は、我らを汚れなき者として御前に立たせたいと願い給う。そのために御子を十字架につけ給うた。我がための十字架であるだけでなく、我も共につけられている十字架だ。自我が始末された魂にキリストが内住し給う(ガラ5:24、2:20)。自分で自分を潔めることはできない。だからキリストがなし給うた。
これが我らに示された奥義だ。異邦人だから受けることができる救いの奥義だ。謙虚で柔らかい魂にだけ開かる奥義だ。パウロはこの福音を宣べ伝えていた。我らをキリストにあって全き者として立たしめるためだ。救いと聖潔(きよめ)のこの信仰を得て、初めて全き者、円熟した者、一人前の者として神の前に立つことができる。
パウロの苦闘はこのためだった(29節)。御前に立てるクリスチャンになれとは神の願いであり、そのまま彼の重荷だった。彼は、キリストの体なる教会の建て上げのために、キリストの苦しみの欠けを補っていた(24節)。キリストの体なる教会は、すべての信徒が内住のキリストをいただき、栄光の望みに生きるようになってこそ建て上げられる。そのためには、どうしても牧者の苦しみが必要だ。あなたがたが内住のキリストの信仰に立つこと、これが主の切望であり、かつ牧師の責務だ。
福音の奥義を求めて、信仰によっていただこう。この栄光に富んだ奥義に開かれたクリスチャンにしていただこう。望みからいささかも移らず、成し給う主を信じて従うなら、栄光の望みを我がものにすることができる。