もっとも幸いな者
ルカ1:39-56
キリスト降誕の記事を読むたびに思うことは、登場人物が皆、主を礼拝していることだ。羊飼いたちは急いで嬰児(えいじ)を拝みに行き、東方の博士たちは幼な子に贈り物を献げた。しかし、彼らに先だって礼拝したのがマリヤだった。イエス誕生前のことだ。
マグニフィカー卜と呼ばれるマリヤの賛歌だ。マグニフィカー卜とは、ラテン語で“崇める”という意味だ。
マリヤは、急いで遠距離を旅してエリサベツを訪問した。それは、特別なことが起こったからだ。処女でありながら子を宿すとは驚くべきこと、また恐るべきことだった。婚約者の愛を、社会的信用を、そして自分のいのちを失う危険があった。しかし彼女は従った(38節)。全能の主の前に全てを献げた。大きな犠牲だったが、主に従うことを彼女は選んだのだ。
マリヤのあいさつを聞いて、エリサベツの胎内の子が踊った。母の感動が胎児に伝わったのだ。彼女はマリヤに、「あなたは女の中の祝福された方…」(42節)と言った。マリヤが「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった」(45節)からで、エリサベツ自身の体験からくる確信だった。
マリヤは主の真実を信じた。真実な主は約束を果たされる。マリヤは真実な主のお言葉を信仰をもって受けとめたのだ。
マリヤの賛歌(46-55節)は美しい歌だ。彼女は「わがたましいは主をあがめ…」と歌い出す。これは彼女の礼拝だ。心はただ主にのみ真っ直ぐに向けられている。わずかの不純物もない。マグニフィカート(崇める)とは、“大きくする”という意味もある。彼女の心には、主だけが大きく描かれた。他は小さく、主が最大になった。そこから霊とまこととによる礼拝(ヨハ4:24)が生まれる。
彼女は、「主はこの卑しいはしために…」(48節)とへりくだった。主が拡大されるとは、自分が小さく、低くなることだ。真の礼拝は、謙遜と服従をもって献げるべきものだ。彼女は従ったから礼拝できた。我らの礼拝はどうか。どれだけ主が大きく崇められているか。どれだけ自分が小さく低くなっているか、と探られる。
資格なき者を神は憐れみ、救い主の母に選ぶという大きな事をされた(49節)。神は我らにも、十字架による贖いという大きな事をされた。罪なき御子が、我らのために、神に捨てられて十字架にかかられた。私が過去の一切の罪から救われるため、さらに私が、救われた後も御心に従い得ない自我から潔められるためだ。わが内の古き人がキリストと共に十字架上に始末されたとき、内住のキリストがわが内に生きてくださる(ガラ2:20b)。この救いで生きる者になること、これが神の大きな御業だ。
マリヤの賛歌は、我ら全人類の賛歌だ。主のみ言葉を信じ、主の真実に信頼し、御心に従ったマリヤこそ、もっとも幸せな者だ。神の御言葉は真実だ(イザ55:11、60:22b)。御言葉の真実に信頼しよう。祭司ザカリヤは信じなかったから裁かれた。一介の少女マリヤは信じたから祝福された。マリヤの信仰に倣いたい。我らももっとも幸せな者になりたい。クリスマスの備えとは、我らの魂の目が開かれて、整えられることにほかならない。