キリストの愛に根ざして
エペソ3:14-21
本書には教会の姿、クリスチャンの姿が描かれている。滅び行く者であった我らが、どのようにして救われ、潔められ、キリストの体なる教会に建てあげられるかという全過程が示されている。
パウロはひざをかがめて祈る(14節)。啓示により、異邦人が福音によって選民と共に神の国を相続する者になる(6節)という奥義を知らされたからだ(3節)。神の国を継ぐのは、選民ユダヤ人の特権で、異邦人たる我らは神の約束に縁が無かった。ところが我らが、福音によって、選民と共にその祝福にあずかることができるのだ。
福音とは、キリストの十字架と復活によってもたらされる救いと聖潔(きよめ)の良き知らせだ。罪なき神の子が、我らの罪のため十字架にかかられた。捨てられるはずのない神の子が、捨てられて当然の我らが救われるために、身代わりに捨てられ給うた。
罪を悔い改め、十字架を信じた我らに、罪の赦しが与えられた。そればかりではなく、キリストが内に住み給う。選民・異邦人に関係なく、誰でも、信仰によって神の全き救いに入れられる。これが福音であり、キリストの測りがたい富だ(8節、ピリ3:8)。これが我らに与えられるのは、まさに驚くばかりの恵みだ。
これほどの祝福にあずかっている我らのために、パウロが祈りを聞き給う父に祈る(15節、詩65:2)。その祈りの内容は、①信仰が強められることだ(16節)。内なる人すなわち信仰が強められたいと誰でも願う。しかしどの程度かは、こちらで勝手に決めるのではない。神が強め給う。父の御心に従わなければ何もできない、と無力になり、全てをなし給う主を信じて求めたい。
②キリストに内住していただくことだ(17節)。これが祈りの中心だ。神の御子が私のような者の内に住み給うとは! しかし、主は古き人と同居はされない。自我が十字架で始末され、葬り去られた魂に初めてキリストが内住し給う。まず、愛せない、赦せない、妬みが出て来る、言われたら言い返したくなる…という自己の真相を認め、こんな自分は嫌だと思うことだ。そこから聖くされたいという渇きが起こされる。行くべきところは十字架だ。古き人を意志をもって十字架につけ、待ち望んだ魂に主は臨み給う。主が内住されたら、主がどこまでも御心に従われたように、我らも喜んで御心に従う者になる(詩40:8)。
③キリストの愛を知ることだ(17-19節)。キリストの愛に根ざし、愛に基盤を置いた、愛がいつも動機という生き方をしたい。計算や打算のない、いつも相手に与え尽くす愛をもって歩みたい。主は、我らのために、とことんご自身を注ぎ尽くし、使い果たし給うた。
その愛の広さとは、神から遠く離れていた我をも救い給うた広さ、その長さとは、傲慢不遜な我らを長く忍耐し給うた長さ、その高さとは、死の底に沈んでいた我を生かし、よみがえらせ、天の処に座せしめ給うた高さ、その深さとは、我らの内に住んで潔め、内奥から新創造させ給う深さだ。まさに人知をはるかに越えた愛だ。これほどの愛を、我らが知り得るとは!
④神の満ち満ちた様にまで満たされることだ(19節)。神に満ちているものとは、神の聖さと愛と力だ。これをもってこの世にあって勝利し得る。万事を可能ならしめる御方によって、全てが可能という歩みができる(ピリ4:13)。なんと標準の高い歩みか。こういう歩みができるように、とのパウロの祈りだ。
我らも、キリスト内住の恵みをいただき、キリストの愛に根ざした生活を送りたい。信じて求めるなら、主がなし給う(20節)。