罪からの解放の福音
使徒13:13-43
10月31日は宗教改革記念日だ。1517年のその日、マルティン・ルターは、ドイツのウィッテンベルグ城教会の門扉に、ローマ教皇に対して95か条の公開質問状を打ち付けたことが、歴史的な改革のきっかけとなった。ルターの掲げた三大主義の中で、信仰義認が本日の説教と深い関係がある。
ピシデヤのアンテオケの会堂での説教で、パウロは、出エジプトから説き起こし、イスラエルの歴史を語り、さらにイエス・キリストの十字架と復活を語った。
彼は、「ですから、兄弟たち…よく知っておいてください。」(38節)と、イエスによる罪の赦しの福音を語った。イエス・キリストが私たちにもたらした福音は、罪の赦しだ。私たちは神の前に一人残らず罪人だ。私たちは神から離れ、神を認めようとせず、傲慢極まりない者だ(ロマ1:20,21)。
そんな我らのために、神は独り子キリストを世に送られた。罪なき神の御子が我らに代わって、我らの付けられるべき十字架にかかり、血潮を流して贖いの死を遂げられた(1コリ6:20)。こんな自分のために、尊い代価が払われたとは!
ペンテコステの日、ペテロの説教を聞いて、エルサレムの市民は「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」(使徒2:37)と問うた。彼の答えは「悔い改めなさい」だった。罪が分かったらそのままにしてはおけない。神の前に悔い改め、十字架を信じる。認罪-悔い改め-十字架信仰の手順に従った魂に、罪の赦しが与えられる。赦罪-義認-神との和解-新生の救いだ。
38,39節に「モーセの律法によっては解放されることのできなかった…」とある。モーセの律法では救われない。罪の縄目から解放されない。なぜなら、律法によっては、全ての人間は神の前に義とせられないからだ。律法によっては、罪の自覚が生じるのみだ(ロマ3:20)。律法は我らの罪を暴き、滅びゆく身だと気づかせ、我らをキリストに連れて行く養育係だった(ガラ3:24)。
罪の恐ろしさに震え慄(おのの)いたなら、そのままにしておけない。罪を片時も持っていたくないと思う。そこから悔い改めへ導かれる(1ヨハ1:9)。悔い改めてキリストの十字架を仰ぐ(1ヨハ1:7)。「信じる者はみな…」とあるように、救いは信仰によって与えられる。律法では成し遂げられなかった救いが、キリストの贖いのみ業と、それを信じる信仰によって、我らに与えられる。「みな」だから例外はない。自分など無理、あの人は不可能という魂はいない(マル10:27)。
救いの恵みをはっきりと得るべきだ。救いが不明瞭であってはならない。主の前に立てないからだ。不明瞭だとするなら、原因は認罪と悔い改めの不徹底にある。雨戸の最初の一枚が入っているか、点検しよう。今が恵みの時だ(2コリ6:2)。
救いがはっきりすれば、魂は必ず聖潔へと向かう。なぜなら、救われたはずなのに、なお神に喜ばれない自己の真相にぶつかるからだ。従いたくない自分、実は自分が一番可愛いという己の姿に愕然とし、徹底的に叩きのめされたなら、そこから十字架を仰ぐのだ。そうするなら、醜い己は十字架で死んでいると、キリストの十字架に合わせられ、キリストを内に住まわせて生きる、という恵みに開かれる。これも律法が成し得なかった事だ。
イエスが十字架の贖いをもって成し遂げ給うた。信じ従う者はみな、恵みによって聖とされる。神の約束、福音の力だ。十字架と復活の福音は、我らをここまでする。信じて従う者に現される神の力だ。
こんな者が義とされる。こんな者が聖とされる。だから福音なのだ。
信仰によって罪と汚れから解放される福音を自分のものにしていただこう。そして、さらに信仰によって進んで行く者にしていただこう。