霊とまことによる礼拝
ローマ12:1,2
本書のテーマは義認・聖化・栄化だ。我らはいかにして義とされるか、いかにして聖められるか、いかにして栄光の姿にされるか、ということが本書に記されている。
本章から、贖われた者がどうあるべきかという実践論に入る。1節に我らが霊的な礼拝を献げるべきことが勧められている。それは、第一に、神に受け入れられる供え物として献げる礼拝だ。神が受け入れられる供え物は、砕かれた悔いた魂(詩51:16,17)、御言葉を信じ、すぐに従う魂だ。
しかしそれは、キリストがどういうお方かがわかっていない肉ではできない。キリストは実に心の砕かれたお方で、神様の栄光を捨ててこの世に来られ、徹底してみこころに従い、十字架の死まで従順に歩まれた。このお方がわからなければ、砕かれた魂になれない。この主を内にいただくなら、我らも砕かれた魂になる。
第二に、聖い供え物として献げる礼拝だ。神は我らをご自身の栄光のために用い得る供え物としたいと願われる。しかし、我らが汚れたままでは、主は用いることができない。キリストの血潮によって聖められ、もはや自分のためには生きず、自分のために死んでよみがえられた方のために生きる生涯を送りたい(2コリ5:14b,15)。
第三に、生きた供え物として献げる礼拝だ。生きているか否かは、神の語りかけに応答できるか否かでわかる。敏感に御声を聞いて直ちに応答する、これが神との交わりだ。語りかけを聞いているのに、知らん顔をしたり、聞こえないふりをしたりせず、聞いて謙虚に受け止め、素直に従っていく生きた魂となりたい。
こういう魂にされて、主に自分自身を献げることができる。これが霊的な礼拝だ。我らは、こういう礼拝を献げ得る者とされている。礼拝は、恵みを受ける場であると同時に、献身の場だ。神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として献げる礼拝を献げたい。形だけの礼拝、自己満足の礼拝ではなく、神が求め給う礼拝を献げたい(ヨハ4:23,24)。神の前にひれ伏し、全てを献げたい(詩46:10)。
この世の力は凄(すさ)まじい。知らない間に入り込み、福音から純粋性を奪う。福音の純粋性とは、キリストの十字架と復活、救いと聖潔の福音だ。それを水増しし、割り引こうとする力が働くが、決して妥協してはならない(2節、箴22:28)。そのためには、礼拝の姿勢が徹底されなければならない。
神のみこころを知る者になりたい(2節)。そのためには心の一新が与えられる必要がある。自分の考えを神のみこころと思い込む場合があるからだ。御言葉を通して贖いの恵みの深みが分かり、信仰が与えられ、さらに従っていくなら、魂が根底から一新される。造り変え給う御方、創造の主、魂の造り主によって変えていただかねばならない(イザ43:l)。
全き事でなければ神は喜ばれない。神が我らにお求めになるのは、神への信頼における完全だ(マタ5:48、創17:1)。中途半端な信頼になっていないか、神と世、神と自分に兼ね仕えてはいないかを点検したい。
身も魂も神に献げて、魂の深みまで一新されたい。変貌された魂にされて、いつも神のみこころに沿った歩みをしたい。