深みに漕ぎ出して
ルカ5:1-11
シモン・ペテロは、夜を徹して労苦したのに収穫のない時もある貧しい漁師だった。彼の生涯を決定するイエスとの出会いは、そんな貧しさの中で起こった。彼は虚しく空の網を引き上げ、破れを修理していた。そんな彼に、イエスは舟を貸して欲しいと頼まれ、彼は舟を漕ぎ出した。彼はイエスに最も近い位置にいた。
イエスの説教に熱心に耳を傾ける群衆とは違い、最も近い所におりながら、ペテロの魂には主のメッセージは入ってこなかった。たぶん明日の生活のこと、家族のことを考えていたのだろう。
イエスは彼に「深みに漕ぎ出して…」(4節)と言われた。彼は、イエスと少なくとも二度会っており(ヨハ1:41,42、ルカ4:38,39)、主にある程度の敬意は払っていたが、漁のことには素人のはずの主に言われて、反発心が働いた。しかし、彼は「でもおことばどおり…」(5節)と言って従った。これが彼の素直なところだった。素直に従う魂に祝福が与えられる。従った結果は、今まで経験したことのない大漁だった。
けれども、ペテロは喜べなかった。魚の山を前にして、彼はイエスの足もとにひざまずき、主に離れていただくよう願った(8節)。深刻な罪の告白をしたのだ。彼は、この大漁を見て、イエスが神の子と知り、自分の姿がわかったのだ。主の御業を見て、主を信じなかった罪が明白になり、自分の罪深さに恐れおののいたのだ。
そんな彼に、イエスは「こわがらなくてもよい…」(10節)と言われた。何故か? イエスが赦し給うからだ。
イエスは、ご自身の十字架の血潮でどんな罪をも赦し給う。罪なき神の子が十字架にかかられたのは、我らの身代わりだった。神から捨てられるはずのない神の子が、神から捨てられたのは、捨てられるべき罪人の我らが、捨てられず、罪の赦しをいただくためだったのだ。
イエスはペテロに「なんじ今より後、人を漁らん」(10節文)と言われた。自分の生活のために働く者から、神のために働く者に変え給うたのだ。罪を赦した上で、ご自分の働きのために用いようとされたのだ。
彼は一切を捨てて従った。人生の大転換だった。彼にはもう恐れはなかった。自分のような者を愛し、罪を赦し給うた御方に従えば、心配はなかった。
「懼(おそ)るな」(10節文語訳)と主は我らにもお声をかけ給う。我らはどれだけ自分の罪に恐れおののいているか。救われてもなお神に逆らう己の姿に、震えたことがあるか。開き直りや自己正当化はないか。あるとするなら、自分が一番かわいいからだ。そういう己に震えおののくべきだ。恐れ惑うべきだ。恐れる魂は主の前に引き出される。そこで主は「懼るな」とお声をかけ給う。主は、十字架の贖いをもって、罪の赦しのみか、神に逆らう一切の汚れからの潔めを与え給う。神に喜ばれない自我を十字架に付けた魂に、キリストが内住し給う。
網を下ろしても収穫がないような、真の満足や喜び、平安や感謝がない生き方を続けていてはならない。虚(むな)しいものを拠(よ)り所としていると、何のために生きているのかわからなくなる。主は、深みに漕ぎ出せと招き給う。
十字架の主を信じ、み言葉に従って信仰の深みへ乗り出そう。全き救いをいただく時、主のみ思いを知る者になる。主のみ思いは、すべての者が救われることだ(1テモ2:4、2ペテ3:9)。この主の御心を知り、主への愛に押し出されて、人を漁る働きに加えていただこう。