キリストの尊い血によって
1ペテロ1:1-25
本書の受取人は、迫害のために各地に散らされたクリスチャンたちだ(1節)。彼らは散らされてもなお困難を覚え、その中で信仰を守り続けていたが、ともすると失望し、挫折し、棄教しようとする者も出てきた。そこでペテロは手紙を書き、彼らは回覧して読み、励ましと慰めを受けた。
彼らは、キリストの血による贖いの恵みの深さを示されることによって励まされ、慰められた。この恵みの深さは、本書を通して教えられる。そして、今日の我らも励ましが与えられる。
我らが選ばれた目的は、御霊の聖めによりキリストに従う者となることだ(2節)。そのためには、キリストの血の注ぎかけを受けねばならない。ここにキリストの血の力、血による贖いの深さがある。その力は、我らを父祖伝来の空虚な生き方から贖い出す力だ(18,19節)。贖いとは、奴隷状態からの解放のことで、新生と聖潔を意味する。
1.キリストの血は我らを新しく生まれさせる
3~12節には、新生したクリスチャンの特性が記されている。①生ける望み(3節)。②朽ちず汚れず消えて行かない天の資産(4節)。③神の御力による守り(5節)。④試練の中での喜び(6節)。⑤精錬された、実験済みの信仰(7節)だ。
新しく生まれなければそこを歩むことはできない。罪を持ったままでは滅びだ。罪を認めて悔い改め、十字架を信じて、明確に救われた魂にならねばならない。罪の赦しを得て義と認められ、主の前に義しい立場が与えられた者になりたい。悔い改めと信仰によって、キリストの血がそうする。
我らはキリストを見たことはないが、キリストを愛している(8節)。そして、信仰によって輝きに満ちた喜びに溢れている。魂の救いを得ているからだ(9節)。これが新生したクリスチャンだ。この救いは、預言者が尋ね求めたものだったが、見い出せず、御使いらも羨望するほどのものだったが、得られなかった。罪を犯した人間にしか味わえない恵みだからだ。
2.キリストの血は我らに御霊による聖潔を与える
新しく生まれたクリスチャンは、早晩、救われてもまだ神に喜ばれない己れがあることに気づく。神の御心に従えない自分、主を愛すると言いながら実は自分が一番可愛いという自分だ。まさに神に対する敵対性だ。
神の前に頭の先からつま先まで真っ黒な自分、こんな汚い自分だったか、と愕然とする。人はごまかせても神はごまかせない。何によっても潔められない。もう絶望するしかない。そこからキリストの十字架のさらに深い恵みへ進む。
キリストの十字架に汚れた己れが共に磔殺されていると、信仰によって決算するのだ(ガラ5:24)。虚しくなって待ち望んだ魂に、キリストが聖霊として内住し給う(ガラ2:20)。そして、神の所有にされる。
そうされた魂は、神の御心に従順な者になる。キリストがそうであったように、徹底的に従順な者になる。これが御霊の潔めにより従順な者になることだ。キリストの血による贖いとは、ここまで為す全き贖いだ。「われ聖なれば、汝らも聖なるべし」(16節文、レビ11:45,19:2)とは、命令かつ約束だ。キリストの血が尊い血(19節)と言われるゆえんは、我らに全き救いを約束する血だからだ。
血による贖いを確実に得たい。父祖伝来の虚しい生活からきれいに贖われたか。エジプトを懐かしみ、荒野の生活に安住していないか。キリストの血は、今も我らのために流されている。
約束を信じて御言葉に従おう。御言葉は朽ちない種であり、変わることなき生ける御言葉だ(23節)。今も我らに生きて働く神の言葉に信じて従おう。