最高の献げ物
マタイ2:1-12
東方の博士たちの訪問はクリスマス後日談だ。彼らは、幼子イエスを礼拝するために、星に導かれてベツレヘムに来た。ここにイエスを巡る三種類の人々の姿がある。
1.ヘロデ王
彼は優れた政治的手腕をもっていたが、出世欲が旺盛で、残忍な性格だった。彼は博士たちの言葉で不安になった。自分が傷つけられることを最も恐れ、それを避けるためには何でもする、幼児虐殺も命じるという、自分中心の塊の姿だ。「私も行って拝むから」と博士たちに言ったが、礼拝者を装っただけで、本心は殺戮(さつりく)を企てていた。
2.律法学者たち
彼らは聖書に精通しており、メシヤの預言もすぐに捜し当てた。彼らは、救い主に関する知識は豊富だが、礼拝の心は皆無だった。礼拝なき知識だ。信仰なき知識は魂を生かさない(2コリ3:6)。「肉は益なし」(ヨハ6:63元)であって、害を与えるのみだ。
3.東方の博士たち
アッシリヤ、バビロン、ペルシャ方面の占星術師は、バビロンの天文学、パレスチナの天変地異についての規則を研究していた。彼らが発見した大きな星は、ユダヤの最大の吉兆、待望のメシヤ誕生のしるしと考えられた。
彼らが遠路はるばる旅をしてきた目的は、礼拝だった。時間や労力や財を費やし、危険を冒して旅をしてきたのは、ただ新しい王を礼拝するためだけで、そのほか何も目当てはない。
長い道中、砕かれて低くされることが多々あっただろう。困難や不安の中から知り得たことも多かっただろう。立派な知者が一人の幼子の前に額づいている姿に、謙遜と信仰がある。彼らは、この幼子が新しい王だと信じたのだ。
彼らは黄金、乳香、没薬をイエスに献げた。最高の献げ物だ。彼らは自分自身を献げたのだ。ここにも彼らの信仰がある。彼らには、新しい王がどういうお方かが、旅の中で開かれていた。イエスを王として黄金を、祭司として乳香を、贖い主として没薬を献げたのだ。
礼拝が終わると、翌日、彼らは別の道から自分の国へ帰って行った(12節)。救い主を拝した彼らは、新しい人にされたから、もはや来た道を戻らなかったのだ。彼らは祝福の生涯へと導かれて行ったのだ。
新しい王の誕生を心から喜んだのは、近くの地上の権力者ヘロデ王でも、己を知者と誇る律法学者でもなく、遠い旅路をたどって来た博士たちだった。私たちはこの三者のいずれだろうか。自分を高くして誇ったり、自己中心の塊であったりしないか。み言葉の光に照らされていくと、自分の内にそのような、神様に喜ばれない古き人があることに気がつかないだろうか。そのままで、イエスを新しい王として迎えることができるだろうか。
しかし、キリストの救いは完全だ。十字架で流された血潮は、汚れた古き人を取り除き、そこにキリストが内住し給う。我らの内に新しい王が誕生していただきたい。イエスが内住される恵みをいただきたい(ガラ2:20)。いつまでもヘロデ王をのさばらせておいてはならない。早く始末していただきたい。そうでないと、我らの魂が死に至らしめられる。
新しく誕生された王は私たちの王だ。私たちを救い、聖め、恐れなく主に仕えしめる王だ。この王をいただいて、王に最高の献げ物をお献げしよう。自分自身を主にお献げしよう(ロマ12:1)。