石の心から肉の心へ
エゼキエル36:16-38
神の選びの民イスラエルは、出エジプトし、荒野の旅を経てカナンの地へ導かれた。彼らは神にのみ仕える永遠の神の民として贖われた。ところが彼らは偶像礼拝の罪を犯し、神の怒りによって国は滅亡し、多くの民が捕囚の憂き目に遭った。
しかし真実な神は、そのような彼らに素晴らしい回復のメッセージを語り給う。捕囚の民は反省せず、傲慢と不信仰と偶像礼拝の悪い生活から離れなかった。彼らは異邦の民の嘲笑の的になり、神の御名が汚された(20節)。彼らは栄光を現すどころか、世の笑いものになり下がったのだ。
そこで神は、ご自身の名誉のために、イスラエルを回復しようと決心された(21,22節)。それほど主の名は汚されていたのだ。主は、我らに同じようにされる。今も主の御名は著しく汚されている。主は、我らを回復しようと立ち上がり給う。我らのためよりと言うより、主ご自身の名誉のためだ。
民への主のメッセージは、新しい心・新しい霊を与えるというものだった(26節)。これは福音そのものだ。古い心とは、罪に支配された心と生活だ(エペソ2:1-3、コロサイ1:21)。その結果は滅びだ(ローマ6:23)。しかし神は新しい心を与えると約束し給う。それは、まずキリストの十字架による罪の赦しの約束だ。罪を悔い改め十字架を信じて、罪の赦しと義認が与えられ、我らは救われた。神の前の立場が新しくなり、居るべき所に居る者になったのだ。それは、ただ神の恵みであり、キリストの十字架の血の功のゆえだ(ローマ3:24、エペソ2:8、ローマ3:28)。義とされたとは、神の子どもとして神に受け入れられたということだ。
ところが、現実はどうか。救われたのに喜びも感謝も賛美もなく、確信も勝利もない。むしろ内から出てくるのは、妬み・傲慢・愚痴・愛のない言葉だ。本当の意味で新しくなっていない。根が同じだからだ。行為としての罪が赦されても、存在としての罪が未解決だ。根が聖められねば解決がつかない。
根っこを聖めるのが聖霊だ。それが26節の新しい霊であり、具体的にはキリスト内住の恵みだ。キリストご自身が内に住み、生き、内から働き出し給うという恵みだ(ガラテヤ2:20a)。
この恵みをいただいたら、キリストのごとくなる。イエスのように、心から喜んで神の御心に従う者になる(詩篇40:8、ヨハネ5:19、8:29)。肉のままでは従うことができない。せいぜい渋々、嫌々、都合の良い部分だけ従うという者だ。それが、喜んで、全部従う者になる(27節)。これが新しい心・新しい霊だ。石の心ではなく、肉の心だ。
そのような魂は、主の所有とされた者だ(28節)。自分を満足させるためではなく、主に満足されることを第一に願うのだ。熱心な奉仕も効果的な伝道も、全て主のためだ。そこには自分の都合は全く介入しない。そのような魂にされたい。
そのためには、石の心が取り除かれ、肉の心にされなければならない。硬く冷たい自我の石、傲慢不遜な石、強情な石がないか。御言葉を素直に受け入れる、御心に従いやすい、柔軟な肉の心にされたい。
自我の始末は自分ではできない。だから主が成し給うた。十字架によって初めて自我が始末される。自我の上に主が来られるのではない。上塗りや補修工事ではなく、破壊と建設だ。
自我の姿を徹底的に見せられ、絶望し、十字架を仰ごう。いい加減なところでごまかしてはならない。主の標準に至らしめられるまで求めよう。