キリストによって溢れる慰め
Ⅱコリント1:1-11
第二の手紙は第一の手紙と筆のタッチが違う。パウロが感情を赤裸々に表現している。
コリント教会のある者が、パウロの使徒としての奉仕に厳しい批判を浴びせ、教会で混乱が起こった。人の声に惑わされる者が多かったのだ。パウロは、個人的な召命に対する攻撃に対して、福音そのものの特質を説くことで対応した。だから、自ずと感情を吐露する場面が多くなった。
1~11節は本書の序文に当たる。パウロは、自分が使徒となったのは神の御旨によるもだと言う(1節)。彼の使徒職は、自分の希望や計画ではなく、強制でもなく、神の任命によるもので、非難中傷されるべきものではないのだ。
使徒(アポストロス)とは、神の国の権威を委託されて派遣された全権大使のことだ。主の血で贖われ、世から呼び出された我らもキリストの使徒だ。罪の赦しと聖潔の福音にあずかり、福音を委託され、世に派遣されている。なぜこんな者がと思うが、神の御旨によるのだ。
3節に父なる神のご性質が表されている。神は愛なるお方だ。愛の具体的な内容が憐れみと慰めだ。神は我らを豊かに憐れみ、慰め給う。苦難の中にある時、人の一言が大きな慰めになるが、神の慰めはなおさら真実だ。なぜなら、あらゆる試練を経験し給うた主の父の慰めだからだ(ヘブル4:15)。神は、我らがいかなる苦難にある時でも、その時にかなった慰めを与え給う。神にとって、慰めが届かないほどの深い苦難、お手上げの患難はない。
我らも神から受けた慰めをもって人を慰め得る者になれる(4節)。神の慰めの深さを知った者は、他をも慰め得るのだ。キリストの贖いにあずかった我らは、キリストの苦難にも与る者になる(5節、ピリピ1:29)。苦難は避けたいのが人情だが、贖いの恵みを感謝している者は、喜んで十字架を負う者になろうとする。主の弟子となりたいからだ。主を愛するからだ。
「キリストの苦難があふれている」と言っても、悲壮感はない。主の苦難を喜んで負えば、主の慰めも内から満ち溢れる。神から慰めを受けた者の内から、主による慰めが溢れる。だから患難に苦しむ人を慰められるのだ。すべての慰めの神、慰めに満ちたる神のもとに行って、十分に慰めをいただこう。そしてそこから遣わされて、人を慰める者にしていただこう。
8節で「兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて…」とパウロは言う。神が慰め給うた実例がある。彼はアジアでひどい患難に遭った(使徒の働き14:19,22、2コリント11:23-27)。耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ喪失し、死を覚悟したこともあった。
しかし、「これは、もはや自分自身を頼まず…」(9節)と言う。これがポイントだ。彼は希望を失って、絶望したか。確かに自分自身には絶望した。しかし神に信頼したのだ。神はこのような魂を救い出し給う(10節)。これは彼の過去の経験であり、今後の確信でもあった。
自己の無能と神の大能だ。自己に頼み、自分で頑張る魂に対しては、神は全能を働かせる余地がない。自己に絶望し、神にのみ信頼するなら、神は十分に力を現し給う。
まず自己の無能を認めることだ。口で言うだけでなく、真に自らの無力、愚かさを承認するのだ。そして、そこから神の大能を信じ、信頼するのだ(マルコ10:27、ローマ4:18a)。「死者をよみがえらせてくださる神」とある。神の大能が最大に働いたのがキリストの復活だ(ローマ4:17)。
パウロの奉仕の原動力は、自己の無能、神の大能だった。そこから、キリストのための苦難をも喜んで耐え、キリストによって溢れる慰めを与えることができた。我らもそういう者にならせていただきたい。