礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2016.05.22

わたし自身が一緒に行く

出エジプト33:1-23

出エジプトをしたイスラエルの民には、約束の地カナンという明確な目的地があった(3節)。ところが、悪い知らせがもたらされた。主が一緒に行かないと言われるのだ。民が頑なだからだ。

彼らは、初めは信仰をもって出エジプトした。小羊の血を信じる信仰によって贖い出された(12章)。紅海も神の方法で渡った。彼らは神の力を見せつけられた。

ところが、彼らはすぐに恵みを忘れた。肉が食べたいと(16章)、また水が苦いと(17章)不平を言った。贖いの恵みよりも、目先の肉欲が満たされないことで呟(つぶや)いたのだ。肉の歩みはいつもこれだ。しかし、憐み深い主は忍耐をされ、マナを与え、岩から水を出させられた。モーセは、不信仰で傲慢な民を愛し、憐れみ、忍耐し続け給うた神の真実を味わい知った。

シナイ山に登ったモーセは、神との親しい交わりのうちに、十戒が与えられた(20章)。律法は、民がカナンの地で神の民として生きるための規準だった。彼らは、律法を「みな行います」と言って誓った(24:3,7)。ところが、その直後、神が最も忌み嫌われる偶像礼拝に走った(32:1-6)。贖われた恵みを全く忘れたのだ。神が小羊の血をもって贖い、荒野を忍耐して導き、ご自分の所有としようとして律法まで与えた民が、何たることか。

神の怒りは燃え、彼らを滅ぼし尽くそうとされた(32:9,10)。しかし、モーセの必死の執り成しで、神は思い直された(32:11-14、詩106:23)。神ご自身が一緒に上らないと言われるのは、こういういきさつがあったのだ。あまりに頑なな民を滅ぼさないための、神の愛の配慮なのだ。

しかし、民にとっては悪い知らせだった。そこでモーセは主の前に出た(12,13節)。神は、御使いを共ならせると約束されたのだが(2節)、それでは間に合わないのだ。神ご自身が伴ってくださらなければ、この強情な民を導けないのだ。モーセは必死で祈った。自分の面目を保つためではなく、民を愛しての祈りだ。

そこへ「我親(われみずから)汝と共にゆくべし。我汝をして安泰(やすらか)にならしめん」(14節文語訳)と主の言葉が臨んだ。神が思いを変え、臨在の約束を与えられたのだ。モーセは、それでも尚主の前に立った。「もしあなた自身が一緒に行かれないならば…」と食い下がって祈った(15)。簡単に受け取らない、安易に立ち上がらない。主の確答を得るまでの駄目押しの祈りだ。神はモーセに確答を与え(17節)、神の栄光を現された(22節)。臨在の約束のしるしだった。

神はいかに民を愛されたか。主は、恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れみ給う(19節)。求めていく者に惜しみなく恵みを与え給う。

民はこの後、カデシ・バルネアで決定的な不信仰の姿を露呈する(民13、14章)。斥候(せっこう)たちの不信仰の報告によって、民全体が不信仰になり、結局、荒野で屍(しかばね)をさらすことになった。それでも神は憐れみを与え、次世代の者たちをカナンの地へ導かれた。

神は我らをも愛し給う。我らをも恵み、憐れもうとし給う。罪を認め、へりくだって真剣に主の前に出た魂に、救いの恵みを与え、さらに内心の汚れを認め、己の醜さに絶望して十字架を仰いだ魂に、内住のキリストを与えて、聖潔(きよめ)の恵みを体験させ給う。

「わたし自身が一緒に行く」の御声は、明確な贖いの恵みを得た魂に臨む。内住のキリストを与えて、臨在の主の確信をもたしめ給う。内住のキリストが在すなら、平安だ。他の民と区別する点はこのキリストだけが与え得る平安だ(16節、ヨハネ14:27)。

不信仰になってはならない。サタンは現実を見せつけて、巧妙に近づく。臨在の主を仰いで進む者になりたい。主は必ず栄光を現し給う。