礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2016.03.27

岸べに立ち給う復活の主

ヨハネ21:1-14

主を失った弟子たちは、恐れと悲嘆に囲まれていた。しかしそこへ復活の主が現われ、弟子たちは主を見て喜んだ(20:20)。恐れは平安へ、悲嘆は歓喜へと変わった。それでも彼らは、まだ信仰に立てなかった。

シモン・ペテロは漁に行くと言い出した(3節)。彼は元の職業に戻って行こうとしたのだ。明らかに信仰の後退だ。復活の主の命令に従ってガリラヤに来て主を待ったのだが、主にお会いできず、失望して元の職業に戻ろうとしたのだ。しかも、他の者たちまで彼に倣った。

彼らは久しぶりに網をとったが、不漁だった。イエス抜きの人間の努力はむなしい。彼らは信仰が地に落ち、仕事にも行き詰まった。しかし夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた(4節)。主は来ておられたのだ。主の約束は真実だった。

十字架で罪に勝ち、よみがえって死に勝たれた主、一切に勝利された主が立たれた。しかし、不信仰によって目がさえぎられていた彼らには、主だと分からない。そもそも不信仰は、主に目を留めないことから生じるが、不信仰になると一層主が見えなくなる。

しかし、主は彼らを責められず、「子どもたちよ。食べる物がありませんね」と優しく御声をかけられた(5節)。主は、食べる物がないことをご存知だった。主は彼らの困窮を察知しておられた上で、あえて彼らに問われた。彼らの口から「ありません」との答えを聞くため、自らのむなしさを認めさせるためだ。救いは、罪の深さを、己れの醜い真相を、まず認めることから始まる。

多くの場合、人は認めない。開き直って見ようとしない。しかし彼らは認めた。そこから突破口が開けた。主は舟の右側に網を下ろすよう言われた。そのとおり従うと、大漁だった。ペテロはかつての同じ体験を回想したに違いない。あの時は、彼は「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と叫んだ。主の御業を見て、認罪へと導かれたのだ。彼は主から「我に従え」と言われた。忘れられない救いと献身の体験だった(ルカ5:1-11)。

いち早く主を見破ったのはヨハネだった(7節)。ペテロはとっさに、上着をまとって海へ飛び込んだ。不信仰の裸の姿を隠したい一心だった。主の前に立つとき、自分の真相が見えてくるのだ。彼は泳いで岸へ帰った。彼は一刻も早く主の所へ行きたかったのだ。やはり主を愛していたのだ。

主は岸で、ご自分が用意された魚を焼いて、彼らを待たれた。主は、不信仰の彼ら、徹夜の漁に疲れた彼らを慰め、いたわられた。

捕った魚は153匹だった。大きい魚ばかりで、網も裂けなかった。復活の主が共におられることで、これほどの祝福があるのだ。主が手ずからパンと魚を弟子たちに与えられた。彼らは食べて満腹し、魂も満足した。彼らの信仰は回復された。復活の主はあなたにも優しく語り、信仰を回復させ給う。

このあと「汝この者共に勝りて我を愛するか」と、主はペテロを取り扱い給う。主を否定し、率先して漁に戻ったペテロを、主の問いは鋭く探った。しかし主の取り扱いは、彼の心の傷を優しく被い、癒した。彼は不信仰から立ち直った。

イースターは、わがために死なれ、わがためによみがえられた主への信仰を確かめるときだ。十字架と復活の主が岸べに立ち給う。この主にどこまでも従おう。従うためには、痛いところ通ったり犠牲を払ったりしなければならないこともある。しかし、我がために十字架の苦難を受けられたイエスを思い、復活して我が前に立ち給う主を仰ぐなら、従う者とならせていただける。