主のみわざを見よ
詩篇46:1-11
詩篇は、神がいかなるお方か、また祈りがどういうものかを我らに教える書だ。本篇は、苦難の中にある者に対する慰めと励ましの詩だ。
1.主への信頼から来る平安
神は我らの避け所、逃れることができる所だ(1節)。神は律法で、過失で罪を犯した者のために、逃れの町を設けるよう定められた(民数記35:10-12)。誤って罪を犯した者とは、我らのことだ。我らはまことの神を知らずに、自己中心でわがままで、自分勝手な生活を送り、そのままでは滅びるしかない者だった。そのような我らを神は憐れんでくださり、キリストを送ってくださった。罪のないキリストが、十字架で神から捨てられるようにして死んでくださったのは、我らのためだった(ローマ5:8、Ⅰペテロ2:22-24)。誰でも罪を悔い改め、十字架が自分の罪のためだったと信じて、罪の赦しの救いが与えられ、滅びから免れさせられる。
また、神は我らの力だ(1節)。罪のために弱くなっていた我らの魂に、キリストの十字架の血による全き救いを通して、罪と世に勝つ力(Ⅰヨハネ5:5)と、キリストのために生きる力(Ⅱコリント5:15)が与えられる。
さらに神は、すぐ近くにある助けだ(1節)。御子の血をもって贖(あがな)い給うた我らのために、キリストは大祭司となってとりなし、最適の助けを与え給う(ヘブル4:14,16)。
この主に信頼していくなら、我らは恐れることはない(2節)。罪の誘惑が来ても、困難が立ちはだかっても、また災難がふりかかってきても、恐れることなく平安をもつことができる。そして勇気をもって立ち向かい(ヨハネ16:33)、また耐え、勝利することができる。
2.都のまなかに在す主
神の都を喜ばせる川(4節)とは、聖霊の川だ。その川が流れる都のまなかに神が在すゆえ、都は揺るがない(5節)。
聖霊は、我ら信じる者の内に注がれる。そして、いつも神に喜ばれる歩みをなす。神と心を一つにし(Ⅱ歴代誌16:9)、聖霊の細いけれども確かな声に聞き従って歩む。これは地上におけるキリストの歩みだ。我らも「万軍の主はわれらとともにおられる」(7,11節)との確信をもって、キリストのごとく歩みたい。
3.主のみわざを見よ
主は素晴らしいみわざを行い給う(8節)。我ら個人個人の内に、救いと聖潔(きよめ)の全き贖いを成し遂げ給う。このみわざをいただいた魂は、やがて主の再臨のとき、栄光の姿に変えられる。
さらに主は、教会のうちに奇しいみわざを行い給う。教会が刷新され、地域にあって灯台として光を放ち、福音宣教のわざが前進する。地域にリバイバルが起こされ、教会に主をほめたたえる賛美が溢れる。
このような主のみざわを見せられたい。そのためには、こちらの信仰が求められる。「汝ら静まりて我の神たるを知れ」(10節文語)とあるように、主の前に静まり、へりくだり、主を恐れ、主に信頼していこう。
主は真実なお方だ。主のなさる事に間違いはない。主はどのようなみざわを見せてくださるか、信仰と期待をもって待ち望もう。