生ける神の御子キリスト
マタイ16:13-28
この聖書の記事は、主が十字架にかかられる10ケ月ほど前のことだ。イエスは、ご自分に対する人々の意識を弟子たちに問われた。人にどう思われているかを気にされたのではない。主の目的は、弟子たちの信仰を見ることだ。
人々のイエス観は、バプテスマのヨハネの再来、エリヤの再来、エレミヤの再来…というように様々だったが、どれも正しい理解ではなかった。彼らは自分の物差しで、自分の都合のよいように理解しているに過ぎなかったのだ。我らもそういう過ちを犯しやすい。自分の尺度でイエスを認識し、都合に合わない部分は切り捨て、自分勝手なイエス像を作り上げることがあるのではないか。
イエスは「あなたがたは…」(15節)と、突然ほこ先を弟子たちに向けられた。あの人が、この人が…ではない、あなたにとってイエスとは何かとの鋭い問いかけだ。ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(16節)と答えた。イエスとはどういう御方かを的確に言い当てる真実な告白だった。
イエスとは、①生き給う神だ。死んだ偶像ではなく、生きて働かれる主だ。②神の御子だ。罪人の我らを救うのは、罪なき神の御子でなければならなかった。③キリストだ。我らを罪と汚れから全く救ってくださる救い主だ。この素晴らしい信仰告白を主は喜ばれた(17節)。
ところがその直後、ペテロは、受難の予告をされるイエスを引き寄せていさめた。生ける神の御子キリストが、苦しめられ、殺されるべきではないと思ったのだ。主のことを心配してのことだが、人間的な思いだった。救い主は十字架などにかかる必要はない、英雄であって欲しい、という肉的な考えから出ていたのだ。
ペテロはイエスから「下がれ。サタン…」(23節)と厳しく叱責された。主は、彼の背後に働くサタンを見据えられたのだ。サタンはいつもイエスの十字架の道を邪魔しようとする。サタンの常套手段は、十字架を否定すること、または割り引くことだ。我らが十字架を信じないように、程々にするように…とやってくる。それに対して、我らは“サタンよ、退け”ときっぱりと言わねばならない。
イエスは、「だれでもわたしについて来たいと思うなら…」(24節)と言われた。弟子たちは皆、イエスについて行きたいと思っていた。しかし、それは苦難のイエスにではなく、英雄としてのイエスにだ。人は、苦しみの少ない、楽な道を選びたがる。しかし、イエスは我らのために神の栄光を捨て、人となってこの世に来られ、十字架にかかられた。罪なき神の子が十字架にかかられたのは、我らの罪のためだった。神から捨てられるはずのない神の子が、神からも捨てられ給うたのは、捨てられて当然の我らが、捨てられないで救われるためだった。何という恵みか!
「自分を捨て」(24節)とあるが、まず罪を捨てよう。悔い改めと十字架を信じる信仰により、犯した罪の赦しをいただきたい。そして、救われた者は、楽な方を取りたい自我をキリストと共に十字架につけ、キリスト内住の恵みをいただいて、その恵みによって主のために喜んで苦しむ者とされたい。
主は我らについて来て欲しいと願われる。自分を捨て、自分の十字架を負うて、生ける神の御子キリストに喜んで従っていこう。