まことの光として
ヨハネ1:1-13
待降節(アドべント)に入る。クリスマスが今や世界中で祝われるわけは、キリストの降誕が我らの生き方に直接かかわるからだ。キリストとはどういう御方か。
1.初めからおられた御方(1節)
キリストは初めからおられた。キリストは神ご自身であり(2節)、神と共に天地創造の業に当たられた(3節)。その御方が人となってこの世に来られた(14節)。永遠の神が、限りある人間となって来られた。それがクリスマスだ。
2.光として来られた御方(9節)
光は暗い部分を照らす。イエスは我らの心の暗い部分、罪を照らされる。罪とは神からの離反だ。元来人は神のかたちに創造されたのに、神の御言葉に背き、神から離れた。キリストを受け入れないのはそのためだ。神は我らを愛し給うたのに、我らは拒否した。キリストを十字架に付けたのは我らだ。キリストの光は我らに罪を示す。
さらにキリストの光は、罪の赦しを与える。イエスは罪を犯した女に「わたしもあなたを罪に定めない」(ヨハ8:11)と言われた。彼女の罪を赦されたのだ。キリストは今も、罪を犯した我らに、十字架の上から罪の赦しの恵みを与え給う。
3.神の子どもとなる特権を与える御方(12節)
義なる神は、我らを罪あるままでは受け入れられない。神が我らを我が子として受け入れるためには、我らの内に巣食う罪(ロマ7:15,17)が始末されなければならない。
我らは、救われてもなお神に逆らう自我、神に対する敵対性で満ちている。すぐに自己正当化と自己憐憫に陥る。こうと思ったら、なかなか己を握って手離さない。結局は自分が一番可愛いのだ。
こういう自分の姿を認め、自分の汚れを真に厭い、離れたいと思うとき、聖めていただきたいという渇きが起こされる。自分で自分を聖めることはできない。だからキリストが十字架にかかられた。その十字架に意志と信仰をもって自我を付け(ガラ5:24、2:20)、むなしくなって待ち望んだ魂に、キリストが臨み給う。そして、神のご性質にあずかる者にし給う(2ペテ1:4)。そのようにしていただいた者が神の子どもだ。
神の子どもにされるという特権は、一人の例外もなく我らに与えられる。「すべての人を照らすそのまことの光」だからだ。ただ「この方を受け入れた人々」「その名を信じた人々」とあるように、信じること、素直に受け入れることが求められる。
光が当たらないように、光に探られないようにとすることも、やろうと思えば出来る。光を感じているのに知らぬふりをすることも可能だ。しかし、我らがいつまでも頑ななら、ついに神は語られなくなる。光を光として受け入れる素直さがあれば、光は必ず届く。
イエスはまことの光として来られた。我らの魂を照らし、全き救いを与える御方として来られた。我らを罪から救うため、十字架の贖いを成し遂げるため、我らを神の子とするためだ。信じよう。必要なのは信仰だけだ。
クリスマスは御子を信じる決断をする時だ。信仰を確かめる時だ。我らも、まことの光を受け入れて、新しい生涯をはじめさせていただこう。