礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2015.08.02

初めの愛に立ち返って

黙示録2:1-11

主は、信仰のゆえに迫害され、パトモス島に流刑になった老聖徒ヨハネに、7つの教会に手紙を書き送れと命じられた。その主の姿が1章13-16節に記されている。聖なる王、審判者としてのお姿だ。

一通目の手紙は、エペソにある教会に書き送られた(1-7節)。パウロの伝道によって基礎が据えられたこの教会は、異教的な影響下にあってよく戦った。労苦と忍耐をもって良い行いに熱心だったこと、悪に対して厳格で、偽使徒を見破ったことなど、誉められるべき点がいくつかあった。しかし、この教会には、初めの愛から離れてしまったという(4節)非難されるべきことがあった。これは決定的な欠陥だった。

初めの愛とは、贖い給うたキリストヘの愛だ。彼らには、どこから落ちたかを思い起こすよう戒められている(5節)。

初めの愛から離れる原因は、①かつて自分がどういう者だったかを忘れることだ(イザ51:1)。罪人のかしら、滅びゆく者であったことを忘れるのは、傲慢の罪だ。何者かにでもなったように錯覚するのだ。良い行いに熱心で、他者に厳格になる時にそうなる。

②主がどれほど憐れみ給うたかを忘れることだ。滅ぶべき我らのために、神は罪なき御子を呪いの木にかけ給うた。捨てられるはずのない神の子が、父からも捨てられ給うたのは、我らのためだった。我らは、主にどれほど憐れんでいただいた者であるかを忘れてはならない(マル5:19)。忘恩の罪ほど神を悲しませるものはない。

③主がどれほど素晴らしい計画を持ち給うかを知らないことだ。罪の赦しだけでももったいない恵みだが、さらに聖潔の恵みまで与えていただける。信仰によって肉を十字架に付け、信仰によってキリストの内住をいただいて、我らは神の所有とされる。神はそういう魂を信任して、御心を示し、主の栄光を現し給う。この計画を知らない、また知ろうとしないと、主への愛は冷える。

我らは、主への愛から離れていないか。救われたときの燃える愛は消えかかっていないか。主を愛するより自分を愛し、主がいかに傷ついておられるかに無関心になっていないか。外側がいかに熱心でも、真面目でも、内に愛がなければ、主は喜ばれない。どこから落ちたかを深く内省し、悔い改めよう。悔い改める魂に、主は愛の回復を与え給う。

二通目は、スミルナにある教会へあてられた手紙だ(8-11節)。エペソ同様、皇帝崇拝の中心地だったスミルナにおいて、信仰の戦いは熾烈を極めた。教会は、苦難と貧困、異端の中傷にもよく耐えた。それでもなお迫害の手が伸びた(10節)。しかし、彼らは信仰の戦いを最後まで戦い通した。まさに死に至るまで忠実だった。

スミルナの監督ポリュカルポスは、皇帝礼拝を拒み、殉教の死を遂げた。火刑に処せられようとするとき、イエスを呪うよう迫られた彼は、86年間主イエスに仕える間、自分に何ひとつ間違ったことをなさらなかった主を呪うことはできないと言った。

この教会も、主への愛のゆえに、死をも恐れずに主に従った。愛の回復された者の姿だ。肉の思いでは、主を最後まで愛せない。どうしても己への愛から離れられないからだ。内に主が住み給うたなら、何ものにもまさって主を愛し、主に従うことができる。

忠実の動機は愛だ。愛なき忠実は律法に過ぎない。そしてすぐに不忠実になる。自ら愛のなさを思うなら、十字架のもとへ行こう。主は愛を回復し給う。そして死に至るまで忠実なしもべにしていただこう。最後の日にいのちの冠をいただける者にしていただこう。