キリストの打ち傷のゆえに
1ペテロ2:24
こんにちは、お元気でいらっしゃいますか。
私たちは、普通、苦難を避けたいと思います。苦難を課せられると、不平不満が出てきます。しかし、私たちの主キリストはどうだったでしょうか。
キリストは罪のない神の御子でしたのに、十字架に付けられて死なれました。キリストは神の御子だから、十字架に付けられるのも平気だっただろう、と思われますか。とんでもない。キリストは、私たちと同じ人間となって来られましたから、私たちの感じる痛みや悲しみを持っておられました。ですから、十字架に付けられる時のお苦しみは、どんなだったでしょう。とても想像することすらできません。
なぜキリストは、そんな苦難を受けなければならなかったのでしょうか。それは、私たちの罪のためです。私たちは、まことの神様を知らず、傲慢になり、自己中心の生活を送ってきました。人を心底愛することが出来ず、すぐに人を憎み、恨み、妬むような者です。私たちは、生まれながらの罪人です。そして、そのままでは滅んでしまう者です。
しかし、憐れみに富んでいらっしゃる神様は、私たちが滅びるのを見るに忍びないと思われ、かけがえのない御子キリストを、私たちの身代わりに十字架におつけになりました。この事実を知り、私たちが自分の罪を悔い改め、キリストが十字架で死なれたのは、この自分の罪のためだったと信じるなら、私たちは誰でも、どんな罪でも赦され、救われます。
新約聖書のペテロの手紙第一、2章24節に、こうあります。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」
罪人の私たちが、罪赦され、神様との関係が正しく回復された者として生きるために、罪なき神の子キリストが、私たちの一切の罪を身に負われました。キリストは神に打たれた者のようにして十字架で死なれましたが、その傷によって、私たちは癒され、罪が取り除かれるのです。
私たちは、キリストのお苦しみが自分のためだったと受け止め、罪からの救いを自分のものにしたいと思います。そして、罪から解放された者として、雄々しく前進させていただきましょう。
教会では、4月20日(日)午後4時より、スプリング・イースターコンサートを行います。藤丸 麗さんによるピアノコンサートです。入場無料です。お誘い合わせておいでください。