水路のそばの木のように
詩篇1:3
こんにちは。ご機嫌いかがですか。
あなたの生活には潤いがありますか。喜びと平安と満足が感じられる日々でしょうか。喜びも感謝もなく、不平と愚痴ばかりの日が多いのではないでしょうか。もしそうだとするなら、どこに原因があるでしょうか。潤いの源に根が下ろされていないからです。
旧約聖書の詩篇1篇3節にこうあります。「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」
潤いの源に根がしっかり下ろされていれば、豊かに実を結び、葉を青々と茂らせることができます。では、その源とは何でしょうか。それは、私たちの主イエス・キリストです。キリストにしっかりと根を下ろすなら、私たちはいつも生き生きとしています。心に喜びがあります。平安があります。希望にあふれています。
キリストは、私たちを、そのような潤いのある歩みをさせるために、この世に来てくださいました。そもそも私たちの生活に潤いがないのは、罪のためです。罪とは、何か悪いことをして法律に触れるということを連想されるでしょうか。しかし、聖書の言う罪とは、外に現れた犯罪というよりも、私たちの心の中にある、神に逆らう性質のことです。まことの神から離れている私たちの心の状態が罪なのです。この罪を持ったままでは、私たちの歩みには潤いがなく、ついには滅んでしまうのです。
この罪から私たちを救うために、キリストは十字架にかかってくださいました。キリストは罪のない神の子でしたが、私たちに代わって十字架について、血を流して死なれたのです。私たちが、自分の罪を悔い改め、キリストが私のために十字架にかかられたと信じるなら、私たちは誰でも例外なく、罪が赦され、救われます。そして、それまで知らなかった喜びと平安が与えられ、天国の希望が与えられるのです。
このようにキリストの救いをいただき、潤いのある生活を送る人は、決して行き詰まったり、絶望したりしません。何か問題が起こったときでも、積極的に前向きで対処することができます。そのような実り豊かな生活を送りたいとお思いになりませんか。
教会では4月26日(日)午後3時より、チャペルコンサートを開きます。テノールの畑儀文さんとオルガンの安田哲也さんによるコンサートです。入場無料です。あなたのお越しを心からお待ちしています。