一粒の麦として
ヨハネ12:20-28
イエスは我らのために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられた。その十字架の死を目前に控えたころ、ギリシャ人たちがイエスを訪問した。過越の祭で礼拝するためにエルサレムに来た異邦人の彼らは、「君よ、われらイエスに謁(まみ)えんことを願う」(21節文語)と、イエスを王と認めて謁見を求めたのだ。主は、「人の子が栄光を受けるその時が来ました」(23節)と言われた。ユダヤ人たちはイエスを十字架に追いやり、その結果、救いはまず異邦人から始められることになった。ギリシャ人たちの訪問を受けて、主は十字架の時がいよいよ近づいたことを痛感されたのだ。
そういう中で「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ…」(24節)と語られた。麦が実を結ぶためには、種である麦が地に落ちなければならない。落ちただけでは駄目だ。死ななければならない。死ぬとは、麦たることをやめ、芽を出すための供給源に徹することだ。そうするなら根を張り、芽を出し、穂を付け、豊かな実を結ぶようになる。
イエスは、ご自分の死をさして一粒の麦と言われたのだ。イエスは地に落ちて、十字架の死を遂げられた。「わたしが地上から上げられるなら…」(32節)とは、ご自分の死に方を自覚しておられた言葉だ。イエスの死は、十字架の上で遂げられるのでなければならなかった。イエスの十字架の血によらなければ、我らの救いはあり得なかったのだ(ヘブ9:22)。
我らは、主の十字架によって、罪と滅びからの救いをいただくことができる。罪を悔い改め、十字架を信じるだけで、誰にでも与えられる恵みだ。救われたら、主を愛し主に仕えたいと願う。
イエスは「わたしに仕えるというのなら…」(26節)と言われた。主を愛し主に仕えるには、主に従わなければならない。イエスがそうされた。いつも父なる神に信頼して歩まれた主は、ゲッセマネの園で、神から捨てられるという杯が取り除かれることを願いつつも、「御心がなるように」と、父の御旨に従われた。主は、神のあり方を捨てられないとは考えず、己れを捨てて御心に屈服し、十字架の死にまで徹底して従われた(ピリピ2:6-8)。
我らも、神の御心に従順に従って主に仕えていきたい。これは、自分に死ななければできないことだ。一粒の麦とは、イエスだけではなく我ら自身のことだ。主は我らのために十字架に死なれた。同時に、我らのわがまま、強情な自我をも共に十字架につけ給うた。汚れた自己の姿に絶望し、十字架を仰ぐなら、キリス卜内住の恵みをいただくことができる。この恵みをいただいて、初めて真に主に仕えることができる。
イエスのように神に仕えたい。主がいかに一粒の麦として己に死に、御心に従われたかに倣いたい。高い標準だが、主の約束だ。主がなし給う。恵みにより信仰によって主に仕える者とならせていただこう。