わたしの霊によって
ゼカリヤ4:1-14
本書に、預言者ゼカリヤに見せられた8つの幻が出てくるが、本章には5つめの燭台の幻が記されている。神は幻を通してメッセージを語られた。
御使いはゼカリヤに、「あなたは何を見ているのか」(2節)と尋ねられた。彼に7つのともしび皿のある燭台と、2本のオリーブの木が見せられた。彼はその意味を問い(4節)、御使いから答えを聞いた(6,14節)。この御使いとの問答は興味深い。彼は御使いから、「あなたは、これらが何か知らないのか」と反問され、「主よ。知りません」と答えた。開き直るのではない。知らないことを謙虚に認め、教えてくださいと求めていく姿勢だ。これは我らも学ぶべきことだ。
70年間のバビロン捕囚の後、紀元前539年にクロス王より解放令が出され、エルサレムに帰還したユダヤ人は、神殿再建に着手したが、ユダの残留民とサマリヤ人らの妨害で中断せざるを得なくなった(エズ4章)。民は故国再建の夢が破れ、希望は忘れられ、神殿に関して無関心になり、生活第一の利己主義に陥った。こういう民を励まして工事を再開させたのが、預言者ハガイとゼカリヤだった。
クロスの後継者ダリヨス王から再建命令が出され、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアの指導で、4年後に神殿が完成した。「大いなる山」(7節)とは神殿再建中断という大問題のことだ。今は妨害と信仰の低下と利己主義が大山のように立ちはだかっているが、その大山は平地になると約束されたのだ。妨害は跳ね退けられ、信仰は回復され、再建が成るという約束だ。
その秘訣が「我霊(わがれい)に由(よる)なり」(6節文語)だ。集団の権力によらず、個人的な力量にもよらず、ただ聖霊によるというのだ。民が神殿を再建できるのは、ペルシャの政治力や軍事力を借りて妨害を一掃することによってではない。また各自が力量を振り絞り、あるいはゼルバベルが踏ん張ることによってでもない。聖霊によるのだ。神の御力と民の信仰による再建だ。
この世の事は権力や能力による。金脈や人脈がものを言う。しかし、信仰の世界では、権力や能力がまかり通るのではなく、聖霊によるのだ。
眼前に大いなる山がいくつも立ちはだかるかもしれない。失望し、挫折し、意気消沈するかもしれない。しかし、我らの立つべきところは信仰だ。「我霊に由なり」と、聖霊に対する信仰だ。そのためには聖霊を内にいただかねばならない。救われてもまだ神に喜ばれない古き人を十字架につけ、空しくなって待ち望む魂に聖霊が臨まれる(ガラ2:20)。
まず、過去の罪の赦しをいただきたい。罪を悔い改め、十字架を信じて、赦罪の恵みをいただきたい。さらに、救われたはずなのに、まだ自己中心で愛がない自分の姿に気づかされ、全く聖くされる恵み、新創造の恵みをいただきたい。
「全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者」(14節)と、2本のオリーブの木のことが解説された。言うなれば油の子だ。「我霊に由る」といつも内住の御霊により頼み、支配され、従っている魂は油の子だ。
聖霊は、求める者に(ルカ11:13)、信じる者に(ヨハ7:39)、従う者に(使徒5:32)与えられる。一心に求め、約束を信じて、み言葉に従っていこう。
大いなる山はある。しかし、内に賜う恵みによって大山を乗り越えていく者になりたい。聖霊によって前進していく者、またそういう教会にならせていただこう。