見ないで信じる人たち
ヨハネ20:24-31
今日はイースターだ。キリストは、十字架にかかって死に、墓に葬られ、三日目に墓からよみがえられた。福音書は、復活のキリストが弟子たちや女性たちに現れ、ご自分が復活されたことを悟らせたことを伝える。今日開かれているトマスの記事もその一つだ。
今日の箇所の直前には、弟子たちが戸を閉め、家の中に閉じこもっているところに、キリストが現れたことが記されている(19節)。恐怖のどん底にいた彼らは、愛する主の姿を見て、喜びに溢れた(20節)。キリストは、ご自分の復活した姿をお見せになることで、彼らが信仰に立つようにと導かれたのだ。ところが、そこにトマスだけがいなかった(24節)。彼は、自分だけが復活の主にお会いできなかったと知ると、復活の事実を信じないと言い放った(25節)。明らかに、これは彼の不信仰、それも、意図的な頑なさを伴った不信仰だった。その根底にあるのは、罪だ。そんな彼のために、キリストはもう一度現れ、トマスが自分の頑なさと不信仰に気づくように導かれた(26,27節)。彼は、自分の心の中にある罪を悔い改め、はっきりとキリストの復活を信じる者とされた(28節)。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)とは、トマスの頑なさを打ち砕くに最もふさわしい光だ。「信じない者」とは、信じられないとか、信じることがわからないというのではなく、信じようとしない強情な心の姿だ。私たちは、かつては神を知らず、神を信じようともしない者だった。罪のために神から遠く離れ、サタンの支配のもとで罪の中を生き、その罪のゆえに滅びる者だった(エペ2:1-3)。そんな私たちが滅びるのを惜しんでくださった神は、私たちを憐れみ、救いの道を開いてくださった。キリストの十字架と復活による救いの道だ。どんな罪を犯した者であっても、自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる。この救いは、キリストを信じた者に与えられる神の恵みだ(ロマ10:9,10, エペ2:8)。キリストが十字架にかかって死に、死を破ってよみがえられたのは、私たちが「信じない者」から「信じる者」となり、救いをいただくためだった。このキリストの救いに与った私たちは、いただいた救いを感謝し、救ってくださった神を信じる者として歩み続けていく。
今日の箇所でキリストはさらに言われた、「見ないで信じる人たちは幸いです」(29節)。”見たから信じる”は、真の意味で、信仰とは言わない。パウロも、見えるものによってではなく、信仰によって歩む姿を語っている(2コリ5:7)。肉眼では見ることができないが、キリストが私の救い主であると信じる信仰は、救いをいただいた私たちの内に始まっていく。ところが、救われた後の私たちの内側には、見えるものを信じ、見えないものを信じようとしない性質が残っている。不信仰の性質、罪の本性だ。普段は信仰的であるかのように装っていても、トマスのように、何か自分の気に入らないことや自分に都合の悪いことが起こると、信仰などかけらもない本性が吹き出す。このような肉の不信仰な姿のままでは、最後に主の前で「よくやった。良い忠実なしもべだ」(マタ25:21)と言っていただくことはできない。私たちが自分の肉を認め、砕かれて神の前に出ていくなら、十字架が示される。示された十字架に肉をつけ始末するなら、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。私たちは、内におられるキリストを通して、信仰によって歩む者になる(ガラ2:20b)。「見ないで信じる人」として、どんなときも神を信じ、神が喜んでくださる信仰の生涯を全うすることができる(ヘブ11:6a)。
「見ないで信じる人たちは幸いです」と、キリストは今も私たちに語っておられる。イースターの今日、私たちは、自らの信仰がどうあるかを省みたい。