礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2024.12.15

インマヌエルの神

マタイ1:18-25

本日の箇所は、マリアの夫ヨセフに御使いが現れる有名な場面だ。だが、ただクリスマスの有名な場面という程度に留めておいてはならない。大切な主からのメッセージを私たちは受け取りたい。

御使いがヨセフに伝えた内容は、恐れずにマリアを妻として迎えよということ、彼女が身ごもったのは聖霊によるのだからということ、生まれてくる子どもにはイエスと名付けよということ、そして、この使信の中心点として、そのイエスこそ救い主であるということだ(20,21節)。この中心点は、クリスマスの中心、キリストの福音の中心、さらには私たちの救いの中心でもなければならない。罪の問題の解決なしに、キリストの救いはありえず、キリストの福音もありえないからだ(1テモ1:15)。私たちは罪のために神から遠く離れ、そのままでは滅びなくてはならない存在だった。

しかし、神は私たちが滅びるのを惜しんでくださり、私たちを罪から救うために、ひとり子キリストを私たちの間に生まれさせてくださった。キリストは、私たちと同じ人としてこの地上を歩まれ、十字架にかかって死に、死を破ってよみがえられた。キリストの十字架と復活こそ、私たちが罪から救われるための道だ。どんな罪を犯した者であっても、その罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるなら、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる(1ヨハ1:9)。この罪からの救いを受け取ることなしに、クリスマスを祝うことも、感謝することも本来はできない。

処女が懐妊したことは、預言の成就だった(22,23節)。預言者イザヤが語った預言だ(イザ7:14)。南ユダ王国の王アハズの時代、アラムの王レツィンと北イスラエル王国の王ペカが結託し、エルサレムを攻めて包囲した。恐れ、絶望するアハズに対して、神は預言者イザヤを遣わし、励ましの御言葉を語られた。そして、しるしを求めるようにと告げられた。ところが、アハズ王は心を頑なにし、しるしを求めようとはしなかった(イザ7:1-12)。さらに、彼は同盟国アッシリアにより頼み、神により頼むどころか、神に背き続け、罪にとどまり続けた(2列16:7-9)。そのようなアハズに対して、インマヌエルとなってくださるメシア誕生の預言は語られたのだ。これは、罪から離れようとしない者に対する神の熱いメッセージだ。

私たちも、救われた、クリスチャンだと言いながらも、アハズのように、なおも神に従わず、罪にとどまり、汚れを温存していないか。明確な救いをいただいた者は、必ずそのような肉が内に残ることに気がつく。神に喜ばれない、いやむしろ、神を悲しませ、神に敵対する本性があり、それを手放そうとしない自分自身に気が付くのだ。聖なる神が、そのような汚れを黙認し、汚れた私たちと同居してくださるはずがない。しかし、罪に生きるアハズにインマヌエルの預言が与えられたように、私たちにも、”神がともにいてくださる”という約束は与えられている。それは、私たちの汚れを聖め、私たちを聖なる者に創り変えるということに他ならない。私たちが自分の汚れを認め、砕かれて神の前に出ていくなら、十字架が示される。示された十字架に自らの肉をつけて始末するとき、キリストが我が内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b, 20a)。私たちは、内に生きてくださるキリストを通して、”神がともにいてくださる”と言っていただくのにふさわしい者として生きることができる。

夢から覚めたヨセフは、御使いの語られた通りに従った(24,25節)。これもまた、アハズとの対比と見ることができる。アハズは徹底して神に従わなかったが、ヨセフは徹底して神に従った。インマヌエルの神をお喜ばせする者の姿は後者だ。

クリスマスを迎えるにあたり、私たちは自らの心がどうなっているかを探られたい。インマヌエルの神から、「わたしはあなたとともにいる」と言っていただくにふさわしい者となりたい(イザ41:10)。