仕えるため
マルコ10:35-45
イエスは弟子たちと共にエルサレムに向かう旅行の途中にあられた(32,33節)。目的は十字架におかかりになることだ。主は先頭に立って歩いて行かれた。そのお姿は、弟子たちが驚くほどに堂々たるものだった。神のご計画に間違いはないと、全幅的な信頼を寄せておられたからだ。
主が弟子たちに何度目かの受難予告をされた直後、ゼベダイの子ヤコブとヨハネがイエスに、御国で主の左右に座することを嘆願した。主は死刑宣告、嘲笑、鞭打ち、十字架と、受難を具体的に詳しく述べられた。それなのに、彼らは主の苦しみを少しも察せず、自分たちの出世を嘆願したのだ。
主は彼らに、自分が何を求めているのかわかっていないと言われた(38節)。彼らは本当に求めるべきものが何か、分からなかったのだ。他の10人は憤慨したが、それは2人が抜けがけをしたことへの怒りであり、良い地位に就きたい、偉くなりたいというのは、みな同じ思いだったのだ。
主は彼らを呼び寄せ、こんこんと諭された。この世では、偉くなりたいと思う者は、人を押し退けてでも上に上がろうとする。生き馬の目を抜く競争社会で、ボヤボヤしていたら落ちこぼれになる。しかし、主の弟子たる者は違う。偉くなりたいと思う者は仕える人に、偉くなりたい者はしもべになるべきだ。この世の中でそんなことをしていたら取り残される。しかし主に従う者は、この世の法則ではなく、天国の法則で生きるのだ。
主ご自身が手本を示された。主は「人の子が来たのも、仕えられるためではなく…」(45節)と言われた。主は神の栄光を捨てて、我らと同じ人となって世に来られた。貧しい人を尋ね、友なき者の友になり、病人を癒し、不自由な人を解放し、ついに十字架にかかられた。多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えられた。主は命をかけて手本を示されたのだ。
我らも弟子たちのように、自己中心ではないか。十字架の主に無関心、無感動の冷ややかな心ではないか。その原因は自分を喜ばせたい肉だ。主の右と左に着座したいという弟子たちの思いは、主のみそば近く仕えたいというものではなく、自分が誇りたい、いい気分になりたいというものだった。結局は自分が一番可愛いというものだったのだ。
自分が何を求めているのかということが、わかっているつもりだけになっていないか。別に悪いもの、間違ったものを求めているのでなくても、的外れなものを求めていることに気が付かない。つまり自分の姿がわからないのだ。“わからせ給え、目を開き給え”と渇いて真剣に求めよう。
このあと、バルテマイの記事がある(46-52節)。彼は見えないことを自覚し、見えることを必死に求めた。求めていくとき、主が見せ給うものは、傲慢、わがまま、強情な自己の真相であり、さらにそういう自我が付けられている十字架だ。その十字架を信仰をもって見上げ、待ち望んだ魂にキリストが内住し給う。そしてその恵みによって、真にへりくだった者になる。謙虚な、素直に従う心を持つ者に、主が変え給う。
本当に求めるべきへりくだった、素直な、従いやすい心は、内住のキリストによって形作られる。だから、我らが真に求めるべきは、キリスト内住の恵みだ。アドベントを迎えて、求めるべきものを求め、得るべきものを得て、贖われ甲斐のある者になりたい。