神の子どもと呼ばれるために
1ヨハネ3:1-10
神が私たちのために備えておられる恵みは、まず罪の赦しだ。私たちは、神の恵みにより、キリストの十字架によって、価なしに罪が赦された(ロマ3:24)。さらに別の方面から、神の子どもとされた恵みがどれほどかをヨハネは語る。
神は私たちを、御子を十字架にかけるほど愛してくださった。この愛の大きさがわかるのは、かつて自分がどういう者だったかを知った者だ(エペ2:1-3)。私たちは神の子どもどころか、生まれながら御怒りを受けねばならない滅びの子どもだった。
しかし、神は豊かな憐れみと大いなる愛を私たちに注ぎ(エペ2:4)、御子を惜しみなく与えられた(ヨハ3:16、1ヨハ4:10)。そのためにどれほどの犠牲が払われたことか。信任した我が子を十字架にかけねばならない御父の断腸の思いがあった。絶対的に信頼された父から捨てられねばならない御子の苦しみがあった。しかし、私たちへの愛のゆえに耐えられた。
神は私たちに、神の子どもとされる特権を与えられた(ヨハ1:12)。悔い改めと信仰によって、キリストの十字架の血の功のゆえに、赦罪と義認を与えられたのだ。
神の子どもたる特権が与えられ、御国を継ぐ資格が与えられた私たちは、これから先どうなるのか、まだ明らかではない。しかし、キリストに似た者となるということは明らかだ(2節b)。やがて主は再臨される。そのとき私たちは、そのまことの御姿をこの目で見る。その日は近い。主は来て神の子どもを呼び集め、キリストの花嫁として御国に迎えてくださる。これが神の子どもの将来だ。何と素晴らしい前途か。
ただし、条件がある。自らを聖(きよ)くして備えていることだ(3節)。花嫁は純潔を守る。花婿のために身を清く保ちたいと願う。聖きを求めるのは、主を愛しているからだ。私を愛し、私のためにご自身を捨てられた神の子イエスを愛するがゆえに、聖くされることを求めるのだ。真の神の子どもは、全き救いをいただいて、主にお会いしたいと切望しつつ備える。
せっかく与えられた特権を無駄にしてはならない。大きな愛が注がれ、犠牲が払われて与えられた神の子どもたる特権を、低く値積ってはならない。恵みを確実に自分のものにし、神の大いなる愛に応える者になりたい。
4-12節には、神から生まれた者がどういう者かが述べられている。罪とは神の律法への違反で(4節)、神に対する罪であり、救われた後の罪、性質としての罪だ。過去の罪から救われたのに、また罪を犯す自分、妬み深く、傲慢でわがままで、冷淡な自分の姿がわかったら、主のもとに持っていくしかない。主は、ご自身の血によって私たちを全く潔めてくださる。
キリストが内に生きておられるという信仰で生きる者は、罪を犯さない(6節)。罪を犯す可能性がなくなったのではく、ことさらに罪を犯して神を悲しませることはしない。神から生まれた者であるなら、罪を犯すことができない。内に在す主を愛する愛のゆえに罪を犯さない。そして御心に喜んで従う者になる。信じて従っていくなら、必ず導かれる。真実な主は、私たちが信じたとおりに実現される(マタ8:13)。
神の子どもとされたい。全き救いをいただいて、いつ主が来られても、傷なく染みなき者として、喜んで御前に立たせていただきたい。