主の道を用意せよ
マタイ3:1-12
今日は、バプテスマのヨハネの箇所が開かれている。彼は、イエスよりも少し前から活動していた人物で、その呼び名が示す通り、人々に悔い改めてバプテスマ(洗礼)を授けていた。彼の働きは、御使いによって彼が生まれる前から予告されていた(ルカ1:13-17)。こうして誕生した彼は、幼い頃から荒野で育ち、神の時を待っていた(ルカ1:80)。そして、神が示された時、彼は働きを始め、罪を悔い改めて、神に立ち返るようにと語り始めた(ルカ3:1-3, 1,2節)。
今日の箇所にある通り、彼のことは旧約聖書に預言されていた(3節)。主とは救い主のことだ。救い主が来るときには、それに先立って、道を用意する、つまり、人々の心を整えるための働きがある、と語られている。ヨハネはこの働きが託されたのだ。彼は、徹底したへりくだりをもって自分の後から来られるキリストを指し示した(11節)。へりくだった、砕かれた心でなければ、主の道を用意するという働きは全うできないことを、彼は悟っていたのだ。
このような彼だからこそ、人々に罪の悔い改めを呼びかけることができた。傲慢な心、砕かれようとしない心に、真の悔い改めは起こらない。悔い改めとは、ただ自分の悪行を言い表すのではない。まして、何の変化も伴わないような後悔にとどまるのでもない。心の底から自分の罪を悔い、そこから全く新しい道に踏み出す転換点なのだ(2コリ7:10)。彼からバプテスマを授けてもらうために、大勢の人が詰め寄せた。そんな人々に混じってやって来た宗教指導者たちに向かって、彼が鋭く投げかけた言葉に目を向けたい。「悔い改めにふさわしい実」(8節)とは、上辺や格好に囚われて、自分の心の底に何があるかに一向に目を向けないという姿勢はではなく、へりくだって、砕かれた心で自分の姿を省みる姿勢で、罪を悔い改めるということだ(黙3:4)。「われわれの父はアブラハムだ」(9節)ともあるが、これこそユダヤ人の最大のプライドだ。しかし、どんなに世では賞賛され、尊いとされるものであっても、プライドをもったままでは真の悔い改めはあり得ない(イザ40:1-8)。
「主の道を用意せよ」という声は、私たちの下にも届いている。私たちは、自らの心が整えられ、救いの道の用意できた者となっているかを問われたい。神は、全ての人が滅びないように、真の悔い改めを経て、救いに導かれるようにと願っておられる(2ペテ3:9)。私たちは、そのままでは自分の罪のために滅びる者だった。そんな私たちを滅びから救うために、神から遣わされたキリストが十字架にかかって死に、死を破ってよみがえられた。誰であっても自分の罪を悔い改め、キリストを救い主と信じるならば、罪の赦しと滅びからの救いが与えられる(ヨハ3:16)。さらに、キリストの救いはさらに深いところにも光を当てる。救われてもなお内側に残る、汚れた罪の性質があることに、明確な救いをいただいた者は必ず気が付く。それをそのままにしたり、ごまかしたりせずに、砕かれた心で神の前に出ていき、自分の肉を十字架につけて始末するとき、キリストが内に臨んで、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:19,20)。これが、ヨハネが証しした聖霊と火によるバプテスマだ(11節)。彼は、早くもここでキリストによる全き救いを示したのだ。内に生きて働かれるキリストを通して、私たちは神の前に整えられた者として歩むことができる(2テモ2:21)。
この整えられた道は、再臨の希望へとつながる。やがてキリストは再び来られる。そのとき、御前に立って花嫁として迎え入れていただくことができるのは、用意のできた者だ(黙19:7, 21:2)。
私たちの心はどうか。主の道が用意のできた者となっているか。へりくだって、砕かれた心で神の前に出ていきたい(アモ4:12)。