我らのための主の計画
エレミヤ29:1-23
イスラエルは、ソロモンの子レハブアムの代に南北に分裂した。ヤロブアムが北王国イスラエルを建てたのだ。しかし、北王国はB.C.721年にサマリヤが陥落してアッシリヤ捕囚となり、南王国はB.C.586年にエルサレムが陥落してバビロン捕囚となった。そんな時に南王国に立てられた預言者がエレミヤだ。
主は、エレミヤを通して、捕囚の民にイスラエル帰還の約束を与えられた。主は、主ご自身が持ち給う計画を示された(11節)。その計画は、民に災いを与えようというのではなく、平安と将来と希望を与えようとするものだと言われる。神が民を必ず故国に返すという計画で、捕囚の憂き目にあっている民への励ましであり、慰めだった。
これは我らへのメッセージだ。主が我らに対して持っておられる計画は、我らの贖いと深く関係している。主は我らを愛し給う。そのために独り子を十字架にかけ給うた(1ヨハ4:10)。我らの罪のための贖いだった。
我らは罪の奴隷だった。思いと行いにおいて神に逆らう者だった。神に対して罪を犯した者であり(詩51:4)、また生まれながらの罪人であり(詩51:5)、滅び行く者だった(ロマ6:23)。
しかし、我らが受けるべき罪の罰を、キリストが代わりに受け給うた。罪なき神の子が十字架にかかられた。我らに罪と滅びからの救いを与えるためだ。悔い改めと信仰によって、誰にでも与えられる恵みだ(ヨハ3:16、ロマ5:8)。
神は、それほどに愛し給うた我らを、敢えて災いにあわせることはなさらない。主の賜物は平安、将来、希望だ。これらは我らが本来持ち合わせていないものだ。持っていると思っている平安も将来も希望も、保障などされていない、はかないものだ。これが生来の罪あるままの人間の姿であり、かつての我らの姿だ。
主はそういうところから、我らをキリストの十字架によって贖い給うた。罪が赦されて平安が与えられる。神との和解だ。また将来が与えられる。生き方が決まったのだ。そして希望が与えられる。天国の希望だ。
我らはこの救いをいただいた。しかしそれで万事解決ではない。自己中心の性質が残った肉のままでは、真の平安がないからだ。普段は平穏でもすぐに波風が立ち、時には嵐にもなり、隠れていた醜いものが表面に出てくる。愛せない、従えない、喜べない、感謝できない…という己が頭をもたげる。そういう自分に心底嫌気がさし、渇いて主の前に出て行くなら、主は十字架の完全な贖いを示し給う。十字架の血潮が、汚れた己、醜い自我、死臭を放つ肉を取り除き、聖霊によって我らの魂を全く聖める。
この恵みをいただいたとき、真の平安、まことの安息が与えられる。動かされない心底からの平安が与えられ、主の御心に従い、自分のためではなく、ただ主に喜んでいただくように生きようとする真の将来が開かれ(2コリ5:15)、そして真の希望、信仰による希望がはっきりとするのだ(ロマ4:17,18)。
これが、我らすべての贖われた者に対する計画だ。主のみ前に出て求めよう。約束を信じて求めよう(12節)。しかも、一心に(13,14節a)、光に従いつつ、正しく求めよう。
警戒すべきはサタンだ(8節)。世の終わりが近い今日、惑わす霊が活発に働く。敵を見破り、また敵に乗せられることなく、主にのみ信頼し、従っていこう。