イエスの宣教
マタイ4:12-25
今日の箇所は、イエスがガリラヤ伝道に臨まれた記事だ。ここから宣教とは何かを教えられたい。
まず、宣教とは、光を告げ知らせることだ。闇の中で悪魔の支配に囚われている人たちに、天の御国の福音という光を掲げることだ。イエスが人として地上に来てくださったこと自体が、光の出現だった(16節, イザ9:2, ヨハ1:9, 12:46)。今日の箇所の直前には、イエスが悪魔の誘惑を受ける場面がある(4:1-11)。直後には、天の御国の福音が語られている山上の説教が続いている(5-7章)。闇である悪魔の支配から人々を解き放ち、神の統治される天の御国へ招き入れるために、イエスは来てくださった。長く闇の中にいる者は、自分が闇の中にいるという認識を失う。しかし、一旦光が照らされると、自分が闇の中にいることに気づく。だが、光に来るかどうかはその人次第だ。光を拒むこともできるからだ。もし光に来るならば、その人は光を持つことができる(ヨハ3:20,21, 8:12)。その人のうちに福音の種が蒔かれていく。だから、闇の中にいる人々に向かって、ここに光があると、光を掲げる私たちの役割が重要なのだ(ルカ8:16, エペ5:14)。
次に、宣教とは、キリストの救いを指し示すことだ。罪の中で滅びに向かう人々に罪を悟らせ、罪から解放される救いがキリストによって開かれていると伝えることだ。宣教を開始されたイエスは「悔い改めなさい」と叫ばれた(17節)。罪の悔い改めに導くことが宣教の基礎だ。また、会堂において「御国の福音を宣べ伝えた」際に、イエスは病とわずらいの癒しを伴って行われた(23節)。魂の病とわずらいの原因は罪だ。この罪の解決なしに、蒔かれた福音の種が根を下ろし、芽を出すことはなく、光に来た人が光にとどまることはない(ヨハ12:46)。キリストは、私たちの罪の問題を解決するために、十字架にかかって死に、死を打ち破ってよみがえられた(ロマ4:25)。自分の罪を悔い改め、キリストの十字架と復活を信じるなら、私たちは罪の赦しをいただく。私たちを瀕死の状態に縛っていた罪は取り去られ、私たちは魂の癒しをいただくことができる(1ペテ2:24)。私たちは神が約束する永遠の命の希望をいただき、救われた者として歩み出すことができる(ロマ6:22,23)。
さらに、宣教とは、私たちが神から遣わされ、私たちを通して神に働いていただくことだ。先に救われた私たちが、まだ救われていない人たちの中に遣わされ、私たちの姿を通して神に働いていただくことだ。今日の箇所で、イエスの宣教の記事に挟まれて、ペテロたちが弟子として召される場面が描かれている(18-22節)。弟子たちは、神の御心をイエスの口から直接聞き、イエスのなされるわざを目撃し、自らの信仰を訓練していただき育てていただく。それらは全て、人を遣わし、その人を通して働かれるという、神の宣教方法を身をもって学ぶためだった。しかし、彼らの上に置かれた目的は、ペンテコステのときに全うされた。その日を境に、彼らは、神から遣わされた使徒にふさわしく、世界中で宣教の実を結んでいった(使徒1:8, ルカ24:46-48)。神は、私たちをも、弟子として遣わし、私たちを通してご自分の宣教を進めたいと願っておられる。しかし、肉を残したままの私たちは、罪の性質のために、神に従い切ることも、神に喜ばれる歩みを徹底することもできない。明確に救われた者は必ず、自らの実態に行き当たる。私たちが自分の姿を認め、その実態を十字架の上につけて始末するとき、キリストが内に臨み、内に宿ってくださる(ガラ5:24, 2:19,20)。私たちは、わが内におられるキリストを通して、神の働きに携わらせていただくことができる(使徒26:17,18)。
イエスが開始された宣教は、私たちに託され今も続いている。私たちが、神の前をどう生きるかによって、宣教は進みもし、衰えもする。私たちは、イエスの宣教を受け継ぐにふさわしい者となりたい。