主に信頼する人々
詩篇125:1-5
先週の詩篇121篇に続き、今日の125篇にも、神が私たちに備える救いと、救われた私たちの歩むべき姿が鮮やかに示されている。
121篇に「右手をおおう陰」としての神の守りが語られていた(121:5)。神の陰で右手がおおわれた者は、まるで周囲を山々で囲まれたエルサレムのようだと言われている(2節)。一方では、要となる右手に集中する神の守りが、もう一方では、全体を囲む鉄壁となる(詩34:7)。条件は「主に信頼する」ことだ(1節)。建前や口先ではなく、文字通り全信頼を主に傾ける人に、主は十全の守りをお与えになる。
「主に信頼する人」とは、まず、サタンの支配から解放された者だ。3節に「悪の杖」とある。杖は、聖書では神の奇跡を行われるときに用いられ、転じて権威や権力の象徴とされる。サタンも、目を見張るような奇跡を行い、権威・権力を行使して人々を支配する(エゼ7:10,11, 黙13:11-15)。私たちもこのサタンの支配下にあり、神を知らず、罪にまみれ、滅びる者だった(エペ2:1-3)。しかし、神の憐れみと愛により、キリストの十字架の救いが与えられた(エペ2:4,5)。罪を悔い改め、キリストの十字架を信じる者は誰でも、罪の赦しと滅びからの救いが与えられる。死から命へ、サタンの支配から神の御支配に移される(コロ1:13,14, 使26:17,18)。これが、神が与える「正しい人の割り当て地」(3節)を確実に受け継ぐための資格だ(詩16:5)。こうして、私たちがキリストの救いをいただいたのは、私たちが再び悪に「手を伸ばさないようにするため」だった(3節)。
「主に信頼する人」とは、次に、悪を捨て去り、キリストに生きていただく者だ。罪を赦され、キリストの救いをいただき、再び悪に「手を伸ばさないように」された私たちだが、内側に残る汚れによって、また悪に手を伸ばしてしまう自分の姿にやがて気づく。神に逆らって「曲がった道にそれ」ようとし、神を悲しませる「不法」を慕う罪の性質だ(5節)。そのような汚れを内に留めている限り、私たちは主への全信頼などできない。私たちに必要なのは、分離だ。私たちが自らの姿に打ち砕かれ、神の前で信仰によって肉を十字架につけて始末するとき、神が私たちの汚れを「追い出される」(5節, ヨハ12:31)。私たちの内から汚れたもの、肉とサタンにつくものが切り離されなければ、私たちが神のものとなることはできない(2コリ6:14-18)。そのように十字架の上に肉がつけられ始末され、汚れからの分離がなされた者に、キリストが臨んでくださり、内に住んで働いてくださる(ガラ5:24,2:19,20)。私たちにその資格が与えられていた、神からの割り当て地は定まり(詩16:6)、私たちは神の嗣業を受け継いでいく者となる。私たちは、内に生きておられるキリストによって、「主に信頼する人」として歩むことができる。主に信頼する者を、主もまた信頼してくださり、使命を託してくださる(マタ3:17)。
「主に信頼する人」に託される使命とは何か。125篇は、イスラエルの平和を求める祈りによって締めくくられる(5節)。これは、122篇6-9節を受けていると思われる。今現在の課題として、私たちはイスラエルの平和のために祈っていく。だが、それだけではない。イスラエルという名は、神の皇太子という意味だ。新約の光で見るなら、キリストの救いをいただき、内にキリストに生きていただく者は、霊的なイスラエルだ(ガラ6:16)。キリストの救いによって神との平和が築かれ、内にいますキリストによって神の平和に満たされた者は、霊的なイスラエルとして、互いに平和を祈りあっていく(エペ2:14-17)。そして、平和と聖さを追い求め(ヘブ12:14)、平和のうちに義の実を結ばせる種を蒔いていく(ヤコ3:18)。ここに、「主に信頼する人」の歩むべき姿があり、教会の姿がある。
私たちは、「主に信頼する人々」となっているだろうか。自らの姿を省み、導きを求めて主の前に出ていきたい。