礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2023.10.08

栄光に富んだこの奥義

コロサイ1:15-29

コロサイ教会は、キリストを救い主として不十分とする異端の攻撃にさらされていた。それと知った獄中のパウロは、コロサイ教会員たちに、贖いとはいかに栄光に富んだものかを教えようとした。

13,14節に、クリスチャンの肖像画が描かれている。クリスチャンとは、闇の力から救い出され、愛する御子の支配下に移された者だ。15節以下に、今度はキリストの肖像画が描かれている。御子とは、①全ての被造物に先だって生まれた御方であり、②万物はみな御子によって造られたのであり、③万物はみな御子のために造られたものだ。

キリストは、私たちに十字架の血による平和を与え、神との断絶に解決をお与えになった(19,20節)。主は十字架で血を流し、死よりよみがえられた唯一の仲介者だ。主は、罪を犯して神に敵対していた私たち(21節)のために十字架にかかり、私たちを神と和解させ、御前に立てる者としてくださった(22節)。罪が分かり、神の前に悔い改め、十字架を信じて、私たちは罪の赦しの救いが与えられたのだ。

しかし、ここで疑問が生じる。救われたら「聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として」(22節)主の前に立てるか、という疑問だ。自らの内側と生活を真摯に顧みるなら、首を縦には振れない。実は主のほうでは、私たちを「聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として」立たせようとされたのだ。それを私たちの側で、肉の性質のために留めてしまっているのだ。愛せない、赦せない、共に喜べない、従えない、結局自分が一番可愛い…という肉、プライドが傷付けられると我慢できない、自分が中心でいないと気が済まない…という自我に振り回されたままでは、とうてい主の前に傷なき者として立つことなどできない。

しかし、私たちは福音を聞いている。「あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません」(23節)。私たちが信仰に留まり、福音の望みより一歩も移らないなら、主が私たちを御前に立つことができる者にしてくださるのだ。

福音の望みとは、福音がもたらす望みだ。それは27節に直結する。つまり内住のキリスト、栄光の望みだ。内に主をお宿しして、再臨の主の前に栄光の姿に変えられて立つことができる希望だ。神は、私たちを汚れなき者として御前に立たせたいと願っておられる。そのために御子を十字架につけてくださった。私のための十字架であるだけでなく、私も共につけられている十字架だ。自我が始末された魂にキリストが内住してくださる(ガラ5:24、2:20)。自分で自分を潔めることはできない。だからキリストがなしてくださった。

これが私たちに示された奥義だ。異邦人だから受けることができる救いの奥義、謙虚で柔らかい魂にだけ啓かれる奥義だ。パウロはこの福音を宣べ伝えていた。私たちをキリストにあって全き者として立たせるためだ。救いと聖潔(きよめ)のこの信仰をいただいて、全き者として神の前に立つことができる。

パウロの苦闘はこのためだった(29節)。御前に立てるクリスチャンになれとは神の願いであり、そのままパウロの重荷だった。彼は、キリストの体なる教会の建て上げのために、キリストの苦しみの欠けを補っていた(24節)。キリストの体なる教会は、すべての信徒が内住のキリストをいただき、栄光の望みに生きるようになってこそ建て上げられる。そのために、主は今も産みの苦しみをしておられると言えないだろうか。

この終わりの時代、主の再臨が近い今、福音の奥義を求めて、信仰によっていただこう。この栄光に富んだ奥義に啓かれたクリスチャンにしていただこう。この望みからいささかも移らず、真実な主を信じて従うなら、栄光の望みを自分のものにすることができる。