礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2023.09.24

塔を数えよ

詩篇48:1-14

今日の箇所に「神の都」(1,8節)とある。「シオンの山」(2節)の愛称でも呼ばれる、エルサレムのことだ。高台に位置する天然の要害であり、ダビデが攻め取り、王都として築き上げた。その子ソロモンが神殿を建て、宗教的・信仰面でのイスラエルの人々の中心となった。

神は私たちをも“ご自分の都”と呼んでくださる。キリストが「砦」(3節)となってくださるからだ。私たちは罪のために神から遠く離れ、滅びゆく存在だった。しかし、キリストが神から遣わされ、私たちのところに来てくださった。十字架にかかって死に、死を打ち破ってよみがえってくださった。キリストの十字架と復活を信じる者は、罪を赦され、滅びから救っていただくことができる。キリストはまさに砦となって、私たちに救いを与えてくださった(詩71:3)。神はそのように救った私たちを、さらに堅固な町へと変えてくださる。

タルシシュという町が、引き合いに出されている(7節)。金や銀を豊富に産出し、海上貿易で栄えた町で、聖書では神に背いた人との関連で描かれることが多い。例えば、ユダ王国のヨシャファテ王は、心が神から離れ、船団を作ってタルシシュへ行こうとしたが、神に止められた(2歴20:35-37)。また、預言者ヨナは、神からの命令に背いて、タルシシュへ行こうとしたが、やはり神に止められた(ヨナ1:3,4)。今日の箇所からも、「神の都」と呼ばれる人との対比として、タルシシュへ行こうとする人がどうなるかを読み取ることができる。

救われた後の私たちの内側にも、神に背く性質が残っている。世の富や栄誉に心を向け、肉の満足や楽しみを追い求めようとする性質だ。神の御心よりも、自分を最優先にして生きようとする性質だ。まるで、タルシシュへ行こうとする人のようだ。しかし、そのような私たちを神は打ってくださる。私たちを「神の都」としての歩みへと引き戻すためだ。神に打たれたとき、私たちは自らの内側に汚れが残ることを悟りたい。そして、打ち砕かれて、神の前に出たい。神の前で私たちが肉を十字架につけて始末するならば、キリストが内側に臨んでくださる(ガラ5:24, 2:19,20a)。キリストが私たちの内側に生きて働き、私たちを「神の都」にふさわしい者と造り変えてくださる。

今日の中心聖句である12,13節に、次に学びたいことがある。「塔」「城壁」「宮殿」とは、私たちの中に主が築き上げてくださったものを表している。「塔」は、見張りやぐらのことで、敵の接近をいち早く発見するためのもの、「城壁」は、敵からの攻撃や侵入を防ぐためのもの、「宮殿」は、要塞のことで、攻めてきた敵に防御戦闘をしかけたり、避難した人々を保護したりするためのものだ。「塔」の数の多さが、敵の接近を察知する力になり、「城壁」の厚さや高さが、敵からの攻撃や侵入を防ぐ力になり、「宮殿」の十全さが、高い攻撃力と避難所として持ち堪える力になる。主は、私たちにも「塔」「城壁」「宮殿」を築いてくださる。霊の目を光らせて、忍び寄る敵をいち早く見破り(1ペテ5:8, 2コリ11:14)、信仰を働かせて、敵の攻撃を防いで侵入を阻み(1ペテ5:9a)、御言葉と祈りによって、敵を撃退し(エペ6:13-18)、愛によって、人々に接していく(1ペテ1:22)。明確な救いをいただいた者の内に、神はこれらの建設を始めてくださる。さらに、内に主に生きていただく者の内に、神はこれらの建設を完成させてくださる。私たちがなすべきことは、数えること、心に留めること、巡り歩くことだ。自分は大丈夫だとあぐらをかくのではなく、自分はどうなっているかを神の前に省みるのだ(ハバ2:1)。私たちが自分の実情を悟り、ここまで導いてくださったことを感謝し、これからの導きを求めていくとき、神は必ず私たちに御心を示してくださる。

私たちが堅固に築き上げられるのは、「後の時代に語り伝えるため」(13節)だ。私たちが神に祝福される姿を通して、後に続く人々に証しすることができる。私たちもこの祝福を生きる者となりたい。