礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2023.08.27

使徒の任命

マルコ3:13-19

今日開かれているのは、イエスが弟子の中から12人を選び、使徒として任命する場面だ。マタイ、ルカにも平行記事が収められており、イエスの働きの中で極めて重要な意味を持つところだ。

まず、背景から使徒任命の要因を学びたい。イエスは目覚ましい神のみわざを行い、各地から大勢の人々がイエスのもとにやってきた(7,8節)。イエスは食事の暇もないほど働かれた(20節)。その働きを実際面で支えたのが、弟子たちだった(9節)。イエスはさらに身近で支えてくれる助け手が必要だった。これが使徒任命の一つの要因だった。もう一つ、もっと深い要因があった。イエスの働きが顕著になればなるほど、それに抗う力も強まっていった。宗教指導者たちの反発があった(6節)。イエスが悪霊の力を使って奇跡を起こしているという批判があった(22節)。近親者たちがイエスを連れ戻しに来た(21,31,32節)。それらの風当たりを感じながら、イエスは早くもご自分の十字架を意識されただろう。弟子たちに対する十字架の予告はまだ先だが、十字架と復活の後、神の国の福音を伝える人材を育てる必要があった。そのために任命される使徒は、「神のみこころを行う人」(35節)でなければならなかった。御心を聞いて、従う人という意味だ。マタイの並行記事(マタ10:1-4)では、滅びる魂に対する深い憐れみが任命の背景だと語られ(同9:35-38)、ルカは、イエスがこの任命のために徹夜の祈りがあったと語る(ルカ6:12-16)。使徒任命に際して、イエスの並々ならぬパッションを学ぶことができる。

だから、イエスが呼び寄せたのは「ご自分が望む者たち」だった(13節)。御心にかなう者たちという意味だ。弟子たちは、イエスの傍らでいつも主の御心を聞くことができた。イエスは、彼らに御心を隠さず、全てを明かされた(4:34)。みわざが行われる際も、イエスの御心は明らかにされた(1:40,41)。使徒として選ばれるためには、この御心を悟り、従うことが必須条件だったのだ。私たちにも神の御心は語られている。私たちがそれを悟り、従うかどうかが問われる(エペ5:17)。主の御心はまず、私たちが滅びから救われることだ(マタ18:14)。この神の御心に従ってキリストは十字架にかかり、よみがえられた(ガラ1:4)。十字架を信じ、罪を悔い改める者は、罪が赦され、滅びから救われる。また神の御心は、私たちが聖なる者として歩むことだ(1テサ4:3)。救われた後の私たちが、内側に残る汚れを始末し、キリストに内に生きてくださることによって成し遂げられる(ガラ5:24, 2:19b, 20a)。私たちは自らが主の御心にかなっているかを吟味し、御心に従って救いを達成し、御心にかなう者となりたい(ピリ2:13)。

今日の箇所には、任命の目的が明示されている。「ご自分のそばに置くため」(14節)、「遣わして宣教をさせ」るため(同)、そして「悪霊を追い出す権威を持たせるため」(15節)だ。「ご自分のそばに置く」のは、弱い彼らを取り扱うためだ。取り扱われなければ、使徒は生まれない。復活された後のイエスは、弟子たちにエルサレムに留まるように命じられた(ルカ24:49, 使徒1:4)。主の傍で取り扱われることを疎んじてはならない。また、宣教に必要なのは派遣だ。遣わしてくださる方に力点があるからだ。使徒たちの働きには必ず任命があり、派遣があった(1コリ1:1, 使徒26:17,18)。だから、遣わされた者は、遣わした方のみこころを行う(ヨハ4:34, 6:38)。そして、敵に立ち向かう権威は任命された者の武器だ。キリストの血潮による、また、内に生きて働いてくださるキリストによる権威だ。この権威によってサタンを退け(マタ4:10)、サタンに勝利を取ることができる(黙12:10)。

主は、私たちも使徒として任命したいと願っておられる。献身とか牧師になるということだけではない。救いをいただき、内にキリストに生きていただく者は、それぞれが置かれたところにおいて使徒として生きる。使徒として神のみこころに生きる者となりたい。