聖さを全うせよ
Ⅱコリント6:11-7:1
パウロは、コリント教会には特別の思い入れがあった。第二次伝道旅行の中で、ユダヤ人らの執拗な抵抗にあい、テサロニケ伝道、アテネ伝道は難航した(使徒17章)。パウロはコリントヘ行って伝道したが、そこでもやはりユダヤ人らに阻まれて伝道は暗礁に乗り上げ、彼は失意のどん底に落とされた。しかし、神が御言葉をもって励まされ(使徒18:9,10)、彼は1年半、腰を据えて伝道し、コリント教会の礎が据えられた。彼の涙により生み出された教会だった。
コリントの町は、繁栄と堕落が共存しており、堕落の雰囲気は教会内にも入り込んでいた。分裂分派、偶像礼拝、性的堕落など、様々な問題が教会内に渦巻いていた。パウロは辛い思いで第一、第二の厳しい手紙を書いた。
「このような約束」(7:1)とは、主ご自身がわが内に住み、私たちが主のものとなるという約束だ(6:16,18)。主がこんな者の内に住み、主御自身が歩み出してくださるとは! 私たちはこの約束にふさわしい者ではなかった。罪の中に死んでいた者であり、滅びゆく者だった(エペ2:1-3)。しかし、神は豊かに憐んでくださり、罪なき神の子が十字架にかかられた。私たちは、罪を悔い改め十字架を信じて、赦罪と義認が与えられた(ロマ3:24)。死んでいた者が生かされ、功なき者が神に近づくことができるという大きな恵みをいただいた。罪が赦されたという確信は、深い喜びになった。
しかし救いはそれに留まらない。救われて感謝しているが、やがて自分の汚れに気づく。妬み、許せない心、神に喜ばれない思いがある。主に従うと言いながら、自分の都合の良い範囲内でしか従えない。主を愛すると言いながら、実は自分が一番可愛い。最終的にはここに行き着く。神は、せっかく私たちを御子の血で贖ってくださったのに、私たちがその程度の者であり続けるなら満足されない。
十字架の血潮は力がある。私たちの過去の罪を洗い流しただけではなく、さらに魂の奥深くまで浸透する。キリストの血は、奥に潜む自我の汚れまで聖(きよ)めるのだ。
まずキリストの十字架の事実がある。そこに信じる信仰が働き、信仰に基づいて決算し、決算に伴って徹底的に従う。そのようにした魂にキリストが臨んでくださる。これが聖霊によるキリストの内住だ。十字架と聖霊による新創造(5:17)、根本からの建て直しだ。
「一切の汚れから自分をきよめ」とあるが、自分で自分を聖めるのではない。キリストのすでに成し遂げられた十字架の贖いによって、またそれを信じる信仰によって聖められるのだ。「聖さを全うしようではありませんか」は、継続を表わす動詞が使われている。信仰に生き続けることだ。御言葉の光に従い続けることなしに完成はない。
全能の神がそこまで導いてくださる(18節)。神には出来ないことはない。ただ私たちが約束を信じ、そこまでしていただきたいと渇いて、従っていくなら、必ず導かれる。
4~10節に勝利の歩みが記されている。パウロは、キリスト内住の恵みを得ていたから、どんな時も主を仰いで勝利することができた。彼はいかなる困難にも負けなかった。意志が強かったからではない。内に恵みを得ていたからだ。恵みの内を歩み続けていたからだ。
私たちもこういう歩みができる。主が私にこういう歩みをさせようと、私のために血を流してくださったからだ。いつかそのような歩みができる、というのではない。今ここから可能だ。自分の考えで先に延ばしてはならない。今こそ好機だ(6:2)。御言葉を聞くことができる今を逃してはならない。
まず、救いの恵みをいただこう。罪を悔い改め、十字架を信じて、救いの確信をはっきりと与えていただこう。さらに聖潔の恵みを求めよう。自分に死に、主に生きていただき、主の御前に傷なき者として立てるという確信をいただこう。不信仰と決別しよう(15,17節)。神の恵みを軽々しく受けてはならない(6:1)。聞くだけの者にならず、聞いて、そのまま信じ、全部従い、確実に恵みをいただこう。