今立っているこの恵み
ローマ5:1-11
ローマ人への手紙は、4つの福音書、使徒の働きに次いで、新約聖書6つ目の書簡、パウロの書簡の最初に位置する。福音書において、主イエスのお働き、お言葉、そして、ご人格が語られ、使徒の働きにおいて、主イエスを通して現された福音がどのように発展したかが語られた後、続く本書間において、福音の全幅が語られていると言われる。パウロが各地で語り伝えた福音の全容がまとめられているとも言われる。福音の神髄は、キリストを通して与えられた神の満ち足れる恵みだ。
まず着目したいのは、本書間の冒頭だ。ここに福音の目的が要約されている。すなわち、人を罪人から聖徒にすること(1:7a)、人をキリストに属する者とすること(1:6)、そして、人を神に対する信仰の従順に至らせること(1:5)だ。この目的が果たされるためには、罪の問題が取り扱われなくてはならない。ここからしかキリスト教の救いは始まらず、福音も始まらない。人は、神によって造られたにも関わらず、造り主を捨て、代わりに「造られた物を拝み、これに仕え」た(1:25)。「神を神としてあがめず、感謝もせず」(1:21)、虚しい思いと鈍い心で生きる者となり、あらゆる汚れと悪に染まった(1:28-32)。この罪のために、人は誰一人の例外なく、神の前で有罪判決が下されていた(3:9, 23)。死刑という実刑判決だ(6:23)。
自分がどれほどの罪人であるかがわかった者が、決して揺るがされないキリストの救いへと導かれる。死刑判決が言い渡されていた私たちに、無罪が言い渡された。理由は、神のひとり子キリストが代わりに罪を担って死んでくださったから(4:25, 6-10節)。キリストの死によって、私たちの犯してきた罪は帳消しにされ、私たちは正しい者、あたかも罪など一度も犯したことのなかった者であるかのように扱っていただける。これが、罪の赦しと義認の恩寵だ(3:24, 使13:38,39)。これが救いの根本だ。罪の赦しには神の痛みと犠牲が伴う。ひとり子キリストが十字架の上で神から捨てられてくださったからだ(マタ27:46, ヨハ3:16)。本来捨てられるはずのなかったキリストが捨てられてくださったことによって、捨てられるはずだった私たちが捨てられなくてよくなった。そして、義認は信仰によって与えられる。信仰義認の実例は、アブラハムだ。彼は、神を信じた信仰によって義と認められた(4:1-3)。「義人は信仰によって生きる」(1:17)とも語られている。私たちは、罪の赦しがキリストの十字架によって与えられていると信じることによって、義としていただくことができる(4:24b)。この罪の赦しと義認が恵みの土台だ。ここから救いは始まる。私たちはこの土台がしっかりと据えられているかを確認したい。しっかりと土台が据えられていれば、その土台の上にしっかりと立つことができる。“恵みに今立っている”と言うことができる(2節)。
明確な救いをいただき、この恵みに固く立つ者は必ず、自己の真相に突き当たる。自分は神の前にどのような者であるのか、神に喜んでいただける者なのか、自分の内側に何があるのか、という光が当たる。すると、内側に汚れや罪の性質が残っていることに気が付く。気がついたならば、それをそのままにせず、ごまかしたり避けたりせず、神の前に出ていく。砕かれて神の前に出て、己を十字架につけて始末するならば、キリストが内に臨んでくださる(6:6-8, ガラ5:24, 2:19, 20)。内に生きてくださるキリストによって、私たちはこの地上を勝利者として(8:37)神に喜ばれる歩みを送ることができる(12:1-3)。終わりの時に、再び来られるキリストに迎え入れられ、栄光の姿に変えられる(8:30)。この栄化の望みをもって、いただいた恵みに固く立ってキリストと共に生きる姿こそ、真のクリスチャンだ(2節)。
私たちも神の恵みに固く立って、全き救いの福音にふさわしく生きる者となりたい。