万事を可能ならしめる主
ピリピ4:4-20
パウロはローマの獄中から、この“喜びの書簡”をピリピ教会に書き送った。私たちは、些細な事で不平・不満を言うが、パウロはどのような境遇でも喜び、感謝することができる生き方を歩んでいた。それは、生ける神を知っていたからだ。
私たちの神は、私たちの一切の必要を満たしてくださる神だ(19節)。「私の神」と言いうるほどにパウロは神と親しい交わりを持っていた。その神は、栄光の富をもって、キリストの贖いを通して、私たちの魂を富ませてくださる。罪のために魂が貧しかった私たちが、救いに導かれ神の子とされ(2コリ8:9)、朽ちず汚れず消えることのない神の資産を受け継ぐ者にされた。
神の富、キリストの富とは、限りない神の愛、豊かな憐れみ、透徹した聖さだ。それをそのまま私たちに与え、私たちを罪の赦しの救いにあずからせ、さらに聖めて神の性質にあずからせるという。これほどの神を「私の神」として知っていたから、パウロは喜べたのだ。
神を知るとは、第一に、神に委ねることだ(6節)。思い煩いやすい私たちが、思い煩わない秘訣は、全てを知り給う神に祈ることだ。八方ふさがりでも天は開いている。信じて祈れば、すべての理解を超えた神の平安が私たちを守ってくれる。この平安は、魂に与えられる安らぎだ。キリストの十字架による罪の赦しをいただいて、初めて持つことができる。御子をも惜しまずに与えてくださった神が、私たちの事を気にかけられないはずがない。この御方に委ねて、私たちはあらゆる境遇に処することができる。
第二に、内から強めてくださる御方を得ることだ。パウロが、決して喜ぶことができない獄中という状況で喜ぶことができたのは、意志の強さや努力の賜物ではない。秘訣を心得ていたからだ(13節)。私たちは不可能な事に囲まれているが、不可能を可能ならしめる御方がおられる。パウロがどんな境遇にあっても満足し、あらゆる環境に対処できたのは、この御方への信仰と信頼のゆえだった。
彼も、かつてはこの御方を知らなかったが、ダマスコ郊外で復活の主との出会い、三日間盲目になり、身動きができないという状況の中で、主を知らなかった罪を悔い改めると共に、己の無力さを痛感した。そして、内から強めてくださる御方、内住のキリストをいただいた(ガラ2:19,20)。あらゆる境遇に処する秘訣とは、この御方ご自身だった。キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値(3:8口語)を知って、今まで価値を置いていたものが無価値になった。価値観の転換だった。
主を信じるとは、もはや自分を信じないことだ。そこから主に対する絶対的な信頼が生まれる(創17:1)。あらゆる境遇に処する秘訣は、内に生きてくださる主だ。周囲の事情は変わらないかもしれない。しかし、こちらが信仰に立てば、すべてが変わる(ヨハ16:33、イザ40:31)。
何事でもすることができると言っても、何か特別な事ができるようになるのではない。十字架の血で罪赦され、聖められ、御前に傷なき者として立てる者となれば十分だ。私たちをそうするのが福音だ。
主によって万事が可能だ。この信仰をもって、雄々しく前進していこう。私たちを強くしてくださるこの主こそ、神の栄光の富だ。この富を深く知りたい。私たちを惜しみなく満たしてくださる神の前に出よう。