主があなたに何を求めておられるのか
ミカ6:1-8
今日開かれているミカ書の著者ミカが活動した時代、南北に分裂したイスラエルの民が、それぞれの道を突き進み、やがて終局を迎えようとしていた。国の外には大国アッシリアの脅威が迫り、国の内では暗殺に暗殺が相次ぎ、混乱と衰退の兆しで満ちていた。民は堕落し、真の神から離れ、宗教儀式は形骸化し、偶像礼拝がはびこっていた。そのような中で、預言者たちは、真の神に立ち返るようにという神のメッセージが語った。時代の闇が濃いほど、示される光は鮮やかになる。ミカたちが語った預言は、まぶしく光る神の御心を伝えた。終わりの近い今もやはり、闇は濃い。だから、今の私たちにも、神のメッセージはまぶしい光のように鮮やかに伝えられる。
今日の箇所は、3-5節の前半と、6-8節の後半に二分される。前半には、これまで主が、どれだけ真実を尽くして、ご自分の民を導いてこられたかが語られている。エジプトの奴隷であったところから救い出された。モーセ、アロン、ミリアムが遣わされ、神の掟が授けられた(4節)。荒野を旅する途中、民は様々な危険に遭うが、中でもモアブの王バラクの企みは顕著だった。彼は、べオルの子バラムを雇い、イスラエルの民に呪いをかけさせようとしたのだ(5節a, 民22-24)。神は不思議な方法で阻止し、民を守られた。シティムからギルガルまでには、ヨルダン渡川があった(5節b, ヨシ3-5)。ヨシュアに率いられた民は、神がせき止めたヨルダン川を渡った。そして、約束の地カナンへ入ることができた。イスラエルの歴史は、全て「主の正しいわざ」(5節c)を彼らが知るため、忘れないためだった(1サム12:7)。
後半には、主がご自分の民に何を求めておられるのかが語られている。数々の神の正しいわざを体験し、神に真実と愛をもって導いていただいたイスラエルの民だったが、彼らが陥ったのは不信仰と形骸化と堕落だった。見せかけばかりの礼拝や体裁ばかりのささげ物を献げながら(6節)、その裏では偶像礼拝にふけり、子どもを偶像への供え物とするという神が忌み嫌われる行為をやめなかった(7節, レビ18:21)。そのような民に向かって、神は、「公正を行」うように(アモ5:24)、「誠実を愛」するように(ホセ6:6)、「へりくだって」「神とともに歩む」ように(イザ57:15)と語り続けられた。民はそれに対して耳を貸さず、神に立ち返ろうとはしなかった。
さて、私たちにも、神はご自分が何を求めておられるのかを語っておられる。公正を行うこと、誠実を愛すること、へりくだって神とともに歩むことは、神のひとり子キリストを通して現された(マタ12:18-21, ヨハ5:19, 8:29)。キリストが、神が求めておられる姿を私たちに示してくださり、十字架にかかって死に、死を打ち破ってよみがえられた。このキリストこそ、私たちに与えられた救いの道だった。キリストの十字架と復活を信じる者は、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる。さらに内側に残る罪の根も十字架につけて始末し、内にキリストに臨んでいただくならば、キリストが内に生きてくださる(ガラ5:24, 2:19,20)。内住のキリストを通して、私たちもキリストのように公正を行い、誠実を愛し、へりくだって神とともに歩むことができる。神が私たちに求めておられることにお応えし、何が神に喜んでいただけるのかを悟って生きることができる(ロマ12:2)。
私たちは、神が真実と愛をもって導いてくださったことを忘れずにいたい。罪の奴隷だったところからキリストの血によって贖われ、神の民としていただいたこと、様々なところを通りながらも、不思議な方法で守っていただいたこと、そして、内にキリストに臨んでいただき、霊的な約束の地、内住の主とともに歩む生涯へと導き入れられたことを忘れず、主の正しいわざをいつも感謝したい(詩103:2-5)。
主が私たちに何を求めておられるかは、いつも語れている。神のご要求にお応えする者となりたい。