無くてならぬもの
ルカ10:38-42
今日の箇所には二人の女性が登場する。マルタとマリアという姉妹だ。彼女たちは、旅をするイエスと弟子たちを自分たちの家に迎え入れ、滞在場所を提供した(38節)。姉のマルタは、いろいろと気を配り、イエスたちをもてなすために働いていた。だが、妹のマリアは、イエスの足元に座って、語られる言葉に聞き入っていた(39節)。それに苛立ち、イエスに詰め寄るマルタに向かって(40節)、イエスは静かに「必要なことは一つだけです」(42節)と諭された。
まず注目したいことは、イエスが語られたことの真意だ。イエスはマリアをかばい、マルタを蔑んだのではない。真意を正しく知るためには、イエスが言われた「必要なこと」が何を指すのかを理解することが欠かせない。今日の箇所に至る前の文脈に目を向けたい。この10章の前半には弟子たちの派遣の記事が載せられている(1-20節)。さらに、イエスを試みようとした律法の専門家の質問(25-29節)に端を発しての、親切なサマリア人の有名な譬え話(30-37節)が続き、今日の箇所へとつながる。弟子たちの派遣も親切なサマリア人も、そこに込められているメッセージは、神の御心だ。神の御心によって選ばれた弟子たちが遣わされたのは、ただ神の御心によった(21,22節)。親切なサマリア人が、倒れている人を助けたのは、神を愛せよ、隣人を愛せよと律法に定められている(27節)神の御心に生きていたからだ。
そして、今日の箇所で、マリアが主の足元に座って聞き入っていたのも、神の御心に従ってのことだった。神の御心なのだから、「それが彼女から取り上げられることはありません」(42節)とイエスはおっしゃったのだ。マルタについても、もてなしに心を配り、労を尽くすことが、神の御心だった。それぞれが神の御心に対して忠実に、誠実に、なすべきことを果たしていくこと。これが「必要なこと」だ。
「一つ」(42節)という点にも注目したい。口語訳聖書では「無くてならぬものは多くはない、いや、一つだけである」と、「一つ」が強調されている。真理は一つ、救いは一つ、神はお一人というのが聖書の原理だ(エペ4:4-6)。今日の箇所の少し後、イエスは再び「一つ」を語られた。イエスのもとにやってきた一人の指導者に対して、「まだ一つ」(ルカ18:22)、欠けていることがあると諭された場面だ。律法を完璧に遵守していると自負していた彼に欠けていた、一つの「無くてならぬもの」は、神の御心に従って生きる、ということだった。
私たちは、この一つの「無くてならぬもの」があるだろうか。私たちは、何によって生きているか。神の御心に生きているか。まず、罪の解決が必要だ。自分の罪を悔い改め、キリストの十字架と復活を信じる者は必ず、罪の解決と滅びからの救いが与えられる。こうして、神の御心に生きる道を歩み始めることができる。やがて、必ず壁にぶつかる。神の御心に従うか、自分の思いに従うかの壁だ。いただいた救いが明確な者にとって、この壁は適当にすり抜けられないものになる。どうしても御心に従えない己の姿、自分の気持ち、自分の都合、自分の欲望を優先させる本性に突き当たるからだ。それをそのままにしておかず、神の前で十字架につけて始末するとき、キリストが内に臨んでくださる(ガラ5:24, 2:19b, 20a)。内に住み、内から働いてくださる。内にいますキリストによって、私たちは御心に生きることのできる者となる。マルタのように、「いろいろなことを思い煩って、心を乱」(41節)すのではなく、マリアのように、神の御心が何か、何が神に喜んでいただくことなのかを悟り(ロマ12:2, 1テサ4:3a)、「その良いほうを選」(42節)んで生きていくことができる。
最後に、ヨハネ黙示録にも大切な「一つ」がある。天国の門は。すべて一つの真珠からできていたという描写だ(21:21)。神の御心に生きるという「無くてならぬもの」を貫いた者の姿だ(イザ54:11-17)。私たちも、そのような姿で生きる者となりたい。