約束の聖霊
使徒2:14-16、29-42
今日はペンテコステ記念礼拝だ。復活されたイエス・キリストは弟子たちの前に現れ、約束の聖霊の待つように命じ(ルカ24:49,使1:4,5)、天に昇られた。弟子たちはイエスの残された約束を信じ、聖霊を待ち望んだ(使1:14)。そして、五旬節の朝、祈っている弟子たちの上に聖霊が降った(使2:1-4)。騒ぎを聞きつけて集まってきた人々に向かって、ペテロが立ち上がり、大声で語り始めた(14節)。
ペテロのメッセージの目的は次の4点だ。まず、自分たちに起こったこの現象は預言されていたことの成就であると伝えること(16-21節)、次に、十字架で殺されたイエス・キリストは復活されたことも、預言の成就であり(24-31節)、自分たちはその証人であると伝えること(32節)、さらに、復活されたキリストが天に引き上げられたことによって、聖霊は降ったことを伝えること(33節)、そして、あなたたちユダヤ人たちは神のひとり子キリストを十字架につけて殺すという罪を犯したのだと迫ること(23,36節)だ。彼のメッセージを聞いて、人々は心を刺され、彼の導きによって罪を悔い改めた(37-41節)。こうして史上初の教会が、ここに誕生した(42節)。
さて、私たちは今日、この箇所から次のことを教えられたい。ペテロが語ったメッセージの17-21節は、ヨエル2:28-32からの引用だ。「主の御名を呼び求める者は みな救われる」(21節)とあるが、これが神の与える救いの原則だ。私たちはまず、唯一真の神がおられることを知らなければならない(ヨエ2:27)。そして、その神が、私たちを憐れみ、ひとり子キリストを私たちのところに遣わされた(ヨエ2:18,19a)ことを知らなくてはならない。キリストの十字架の死と復活を通して、罪のために神から背いて遠く離れ、滅びゆく私たちを救い、義とするためだった(ロマ4:25)ことを知り、自分の罪深さに打ち砕かれなくてはならない。その徹底した認罪から悔い改めが生まれる(1テモ1:15)。悔い改めからキリストを信じる信仰が生まれ、その信仰によって救いが与えられる(ロマ10:9-13)。これが、主の御名を呼び求めるということだ。ペテロのメッセージを聞いた人々は、キリストを十字架につけるという、とんでもない罪を犯したことを認め、打ち砕かれた。そして、心からの悔い改めが起こり、救いをいただくことができた。
ペテロが引用しているもう一つの箇所にも目を向けたい(25-28節)。こちらは、詩篇16:8-11が引用元だが、直前には大切な御言葉がある(詩16:6,7)。割り当ての地が定まったとは、測り縄が落とされた、という意味だ。神の御心にかなっているかどうかを測る測り縄だ。私たちの心もこの測り縄によって測られる。神の御心にかなっているか、もしくは、自分の心ばかり追い求め、神の御心を満たすことができないか、だ。救われた後なおも、世と世にあるものを慕う己、神の御心の通りになりますようにと言いながら、その実、自分の思い通りにならないと気が済まない己、神を愛するよりかも自分の満足を最優先させる己、そうした古き肉の性質、罪の根が残る限り、私たちは神の御心にかなうことはできない。そのような自分の姿を、目を逸らしたりごまかしたりせずに神の前に持っていき、十字架につけて始末するなら、キリストが内に臨んでくださり、内に住み、働いてくださる(ガラ5:24,2:19,20)。内なるお方が「内なる思い」(詩16:7)として教え、導いてくださる。これこそ「ゆずりの地」(同16:6)として、いつも主の前を歩むことができる。
聖霊の約束は私たちにも与えられている。今の時代、かつての使徒たちの上に降ったような激しい形で聖霊降臨は起こらないかもしれない。しかし、私たちが心から主を呼び求めて、罪からの救いをいただき、さらに内側の汚れの始末をつけるとき、内に住んでキリストが働いてくださるという静かな形で約束は成就する。私たちも約束を待ち望みたい。そして、約束を成就していただきたい。