礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2023.03.26

一つのしるし

創世記4:1-16

今日は、アベルとカインの箇所が開かれている。よく前半の二人がささげ物を持って来た場面が取り上げられるように思うが、今日は後半のカインが罪を犯した後に目を留めたい。

まず着目したい点は、カインの罪深さだ。怒りと嫉妬のために顔を伏せる彼に向かって、神は取り扱いの光を当てられる(6節)。そして、「戸口で罪が待ち伏せている」と言われた(7節)。戸口とは、その人の心や核となるところを指す。つまり、罪があなたの心を占領しようとしている、戸口を開けるかどうかはあなた次第だ、と言われているのだ。この時点で、そのような罪を治めることなどできないと、主の前に出るべきだった。しかし、彼は戸口を開けて、罪を中に入れてしまった。さらに、神の悔い改めを促す問いかけにも、彼は心を頑なにする(9節, 創3:9)。罪の姿と心の頑なさとは密接な関わりがある。心を頑なにする者は、罪に身を任せ、さらに心を頑なにして神の光を拒むが故に、罪を重ねていく(ヘブ3:15,13)。

次に着目したい点は、カインの悔い改めだ。神の厳しい裁きの前に、彼は初めて打ち砕かれた。自分が滅びる存在だということがはっきりとわかったのだ(14節)。「私の咎は大きすぎて、負いきれません」(13節)は、彼の真摯な悔い改めの言葉だ。罪を抱えた私たちは、神の前に出て悔い改めなければならない。後悔ではない。自分の咎の大きさに震え、神の前に打ち砕かれること。これが悔い改めだ。悔い改めることなしに、私たちは罪の解決をいただくことも、汚れの始末をつけることもできない。しかし、私たちが心の底から悔い改め、神の前に出ていくなら、神は必ず私たちに救いの道を与えてくださる。

最後に着目したい点は、カインにつけられた一つのしるしだ。神は、彼が滅ぼされないように、彼に一つのしるしをつけられた(15節)。これはキリストの予表だ。キリストは、その誕生が一つのしるしとして予告され(イザ7:14)、告知された(ルカ2:12)。神はここで、カインの悔い改める姿をご覧になり、遥か先に出現するキリストをしるしとして指し示してくださったのだ。

キリストは、私たちの救いを成し遂げるために、十字架にかかられた。カインが大きすぎて負いきれないと言ったように、人はその咎を負うことができない。だが、キリストは、全人類の咎を十字架の上で負ってくださった(イザ53:4-6, 10-12, 1ペテ2:24, ルカ23:34)。このキリストの十字架によって、私たちに救いの道が開かれた。自らの罪深さを認め、心からの悔い改めをもって神の前に出るならば、私たちも罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる。そして、永遠の命の約束をいただき、救いのスタートを切ることができる。

さらに、明確な救いをいただいた者は必ず、己の真相に行き着く。なおも罪の性質が残っていることに気が付く。戸口に待ち伏せている罪と結託し、神に背き続ける真相がある。しかし、私たちにはキリストが与えられている。戸の外にはキリストが立って、私たちの戸を叩き続けておられる(黙3:20)。私たちが意志と信仰をもって戸を開け、キリストをお迎えするならば、キリストは私たちのところに入ってくださる。つまり、一切の汚れた罪の性質を十字架につけて始末するならば、キリストが私たちの内に入ってくださり、内に住み、内から働いてくださる(ガラ5:24, 2:19b,20a)。

預言者エゼキエルは、神殿にいる人たちの額にしるしがつけられたという幻を見た(エゼ9:4-6)。額にしるしのない者は打ち殺され、しるしのある者が滅びを逃れるという厳粛な幻だ。しるしがつけられるかどうかの条件は、神殿の中で行われている偶像礼拝を嘆き悲しんでいるかどうか、だった。罪を嘆き悲しみ、悔い改め、神の前に出る者には、一つのしるしが与えられる。キリストの十字架の救い、そして、キリストの内住というしるしだ。私たちは、一つのしるしをつけられているだろうか。