虫のいい話、それが福音
使徒行伝13:38,39
こんにちは。お元気でいらっしゃいますか。
スポーツや賭け事の世界では、実力もさることながら、運とかツキとかが結構、力を発揮します。私などは、そういうものに全く縁がない人間で、くじ引きや抽選などに当たったためしがありません。ジャンケンにも弱いのです。こういう人間にとっては、“もれなく”というのがどれほどの魅力でしょうか。
新約聖書の使徒の働き13章38,39節にこうあります。「ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについて、この方によって、信じる者はみな義と認められるのです。」
ここに「みな」という言葉がありますね。口語訳聖書では「もれなく」となっています。うれしい言葉です。誰でも、例外なく、もれなく義と認められる…。義と認められるとは、罪が赦され、神様に“それでよし”とみなされるということです。一言で言うなら、罪から救われるということです。
モーセの律法では、ごく一部の人しか救われませんでした。厳しい掟を一つ残らず守ることができる、強い人だけが、神様に受け入れられるのであって、守らなければならないとわかっていても、守ることができない、大多数の弱い人々は、救われる望みもなく、見捨てられていました。
しかし、イエス・キリストが来られ、私たちの身代わりに十字架にかかられて、私たちの罪を赦し、罪の縄目から解き放ち、神様に受け入れられる者としてくださいました。この恵みに与ることができるのは、一握りの強い人だけではありません。強い者も弱い者も、お年寄りも若い者も、大人も子どもも、みな、です。
一つだけ条件があるとするなら、「信じる者は」とありますように、キリストを信じることだけです。罪を悔い改め、キリストの十字架がこの自分のためだったと信じるなら、誰でも罪が赦され、救われるのです。
そんな虫のいい話…と思われますか。そうです、虫のいい話、それが福音です。福音とは、幸福なおとずれ、うれしい知らせ、グッド・ニュースです。何がうれしいと言って、私のような、こんな者でも、救われるということほどうれしいことがないじゃありませんか。あなたもぜひ、このうれしい知らせをお受け取りください。
教会では、毎週日曜日、午前10時半より礼拝を行っています。一週間の初めの日に、賛美歌を歌い、祈りをささげ、聖書からのメッセージに耳を傾けることは、大きな祝福となります。あなたのおいでを心からお待ちしています。