礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2023.02.19

新しい御業を期待して

イザヤ43:14-21

本書の著者イザヤは、B.C.740年ごろから50年間、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの4代の王の治世に、エルサレムで預言活動した。政治的には、大国アッシリヤの支配下で小国ユダは一応安泰を保ち、ウジヤ王の下でソロモン以来の繁栄ぶりを見せた。しかし、宗教的にはバアル信仰が浸透し、預言者らは堕落し、道徳的標準は低下し、飽食と不節制が蔓延(まんえん)した。神殿礼拝は形式化し、祭司らは命のない礼拝を繰り返した。そのような決して容易ならぬ国情の中で、イザヤは召された(6章)。

本書の前半(1-39章)にはおもに裁きのメッセージが、後半(40-66章)には回復のメッセージが述べられている。神は堕落したユダを見逃されない。厳しく断罪し、バビロン捕囚の予告をされた。しかし、憐れみ深い神はイスラエルを回復された。19節は捕囚からの解放の予告だ。

14節に「あなたがたを贖う、イスラエルの聖なる方」とある。1節でも「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。」とある。イスラエルをエジプトから贖い出し、カナンの地に導き入れた神は、彼らの堕落のため、一旦彼らを異邦の国の手に渡された。しかし見捨てたのではなく、再び名を呼び、救い出し、帰還させ、わがものにすると約束される。

これは霊的に私たちのことだ。私たちは、神によって神のかたちに、神と交われる存在として創造された(創1:27)。しかし私たちは罪を犯し、神の像は破壊され、御前から隠れなければならない者になった。そんな私たちを神は見捨てず、御子を送り、十字架におつけになった。

捨てられるはずのない神の子が捨てられた(マタ27:46)。私たちが捨てられないためだ。功なき我に、罪の赦しと義認の恵みを与え(ロマ3:24,イザ43:25)、神から離れていた私たちを回復し、神の前に立ち得る者にするためだ。

こうして神は、一度創造されたが破壊された私たちを、キリストの十字架によってもう一度創造し直された。私たちをご自分の所有とするためだ。さらに神は、私たちのうちに新しい事を行うと約束される。荒野に道を、荒地に川を流れさせるという新創造の御業の約束だ。

荒野、荒地とは私たちの魂のことだ。救われたのにまだ神の御心に喜んで従えず、己の欲や願望が満たされることを最優先させようとする、自我に支配されている魂は、実を結ばない不毛の荒野、カラカラに渇いた砂漠のようなものだ(ガラ5:19-21)。

神はそんな魂に新しい御業を起こすと、魂の新創造を約束される。古き人をキリストと共に十字架につけ、キリストが内に生き給うという信仰に啓かれて(同2:19,20)、信仰によってキリストのいのちで生きる者にすると言われるのだ。このような魂になって、初めて神は「汝は我ものなり」と信任し給う。

さらに、新しき事とは、教会の内に、家庭の内に、地域の中に主がなそうとしておられるリバイバル(回復)の御業だ。教会が霊的に刷新され、家族が救われ(使徒16:31)、地域への福音宣教が進められる主の御業が実現することを祈り求めていきたい。

新しい御業は、主の熱心が遂行される(13節)。この主の真実に信頼して、新しい御業を期待していこう。

私たちが贖われたのは、主の栄誉を宣べ伝えるためだ(21節)。主がこの教会を、私たち一人一人を、ご自身の栄光のために用いてくださるように!