礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2022.09.04

最善の選択

ルカ10:38-42

イエスはエルサレム郊外の村ベタニヤのマルタ、マリア、ラザロの家をよく訪問された。この日も主は彼らの客になられた(38節)。マルタはいつものようにイエスを迎える準備に明け暮れ、忙しくしていた。

マリアは主の足もとに座り込んで、御言葉に聞き入っていた(39節)。それがマルタには不満で、イエスに不平を言った(40節)。ここには隠れた問題点がある。「私だけにもてなしをさせている」という言い方だ。彼女は喜んでもてなしているのではなかった。もちろん嫌々でも強いられてでもない。しかし心からの喜びをもってではなかったのだ。

彼女の訴えに対してイエスは、「あなたは、いろいろなことを思い煩って…」(41節)と答えられた。主はマルタの不満の原因を、思い煩いからだと指摘された。思い煩いは、心がバラバラに乱れている状態だ。彼女は、今、何が一番大切か考えることが必要だったのだ。

イエスは、「しかし、必要なことは一つだけです((3版)どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。(口語訳)無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである)」(42節)と言われた。マリアはその一つのものを知っていた。それは、主の足もとで御言葉に聞くこと(39節)、これがこの時一番大切なことだったのだ。イエスは「マリアはその良いほうを選びました」と言って彼女の姿勢を評価された。

この時イエスは、十字架にかかるためにエルサレムへ行かれる旅の途中だった(38節)。主は、並み並みならぬご決意をもってエルサレムに向けて出発された(9:51)。マルタたちは、そのイエスを迎えていたのだ。

マリアには、イエスが自分の罪のために十字架にかかられることが分かっていたのではないだろうか。そのイエスが来られるのだ。今はただその主の御言葉を聞きたいと思って御前に出た。今でなければ聞けない御言葉、後では聞きたくても聞けない御言葉、十字架にかかられる主の御言葉を、ひと言も聞き逃すまいという思いで、足もとに座り込んだにちがいない。

どうしても必要なこと、無くてならぬものは、まず御言葉を聞くことだ。それも素直に聞き、従うことだ(1サム15:22)。ただ一つの大切なことは、この態度で御言葉に聞き従うことなのだ。

人の言葉や偉い人の考えではない、イエスの言葉だ。私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の子イエスの御言葉だ。死なれたが復活し、今も生きておられるイエスの御言葉を聞いて、信じて、従うことだ。このどうしても必要なこと、無くてならぬものを忘れてはならない。

他の事をいい加減にしてよいのではない。しかし、御言葉に聞き従うというこの一事がおろそかにされるなら、全ては無意味になるといっても言い過ぎではない。

主は、「それが彼女から取り上げられることはありません((3版)彼女からそれを取り上げてはいけません)」(42節)と言われた。マリアは、御言葉を聞くことを奪われたら生きていけないほどの存在になっていた。私たちはどうだろうか。御言葉を聞くことがどれほど生活の重要な部分になっているだろうか。聞いて従うことが、生活全部にまでなっているだろうか。

「マリアは善きかたを選びたり」(文)。御言葉に聞き従うことを選ぼう。柔らかい、素直な心で聞き続ける事を選択していこう。そのためには戦いがある。しかし、戦いを避けたりせず、御言葉に信じ従うことを勝ち取っていこう。