礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2022.08.14

地上での残された時

1ペテロ4:1-19

今日開かれているペテロの手紙第一は、迫害のために各地に離散し、寄留しているクリスチャンたちに宛てて、使徒ペテロが彼らの信仰を励ますために書いた書簡だ。今日はここから、“時”ということを教えていただきたい。

聖書には“時”を表す言葉が二つある。“クロノス”と“カイロス”だ。前者は言わば、人の時を、後者は、神の時を表すのに使われる。人は人の時を刻みながら生きているが、ときに、自分たちに与えられた“時”を、我が物顔で使おうとする。しかし、人の時を統べ治めているのは神の時だ(伝道3:11, 9:11c, 12a)。神は、神の時を備えて私たちに臨まれる(ヘブ4:7)。だから、私たちは、自分に与えられた“時”をどのように生きるのかが問われる。

私たちはまず、神の時に従って歩まれた先駆けとして、キリストの歩みに目を留めたい。キリストは、神の時に従って地上に来られた(1ペテ1:20, ガラ4:4)。そして、神の時に従って歩まれた(ヨハ2:4, マタ26:18)。父なる神の時はご自分の時であると語られ、父なる神と全く一つであられた(ヨハ10:30)。そのような歩みの行き着いたところが十字架だった。やはりこれも、いやこれこそ、神の時の成就だった(ヨハ12:23, 27, 17:1, ロマ5:6, 1テモ2:6)。死を打ち破って復活されたキリストは、天に昇られた。そして、神の時に従って、もう一度地上に来られる(エペ1:10)。このように、私たちが倣うようにと、キリストの歩みが私たちの前に示されている(1ペテ2:21)。

では、私たちの送るべき歩みとは何か。①キリストの救いをいただくこと。キリストが成し遂げてくださった十字架の死は、私たちの救いのためだった。私たちは、キリストの十字架と復活を信じることで、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる(1ペテ2:24)。②かつての罪の生き方に決別すること。明確なキリストの救いをいただいた者は、罪の生活は「過ぎ去った時で十分です」(3節)と言うことができる。そのように過去の罪に解決をいただいた者は必ず、罪の根の始末へと導かれる。救われた後もなお罪を犯させる汚れを、十字架につけて始末し、捨て去った者は、「罪との関わりを断」(1節)つことができる。そのような者の内側にキリストが臨んでくださり、内から生きて働いてくださる。③レムナントとして生きること。レムナントとは、神によって聖別された残りの者という意味だ。「残された」(2節)には、このレムナントを表す言葉が使われている。内側にキリストに働いていただく者は、聖なる者、レムナントとして歩む(イザ4:3-6)。④キリストの再臨を待ち望む者。聖なる者は、「心を整え身を慎」(7節)みながら、キリストが再び来られる時を待ち望む。主が来られる時は刻一刻と近づいている(ヤコ5:8, ヘブ10:25, ロマ13:12)。これらの私たちの送るべき歩みは、教会へとつながっている。

教会の歩みとは何か。①心を合わせること。「苦難にあずかる」(13節)とあるが、この言葉の中に教会の姿が隠されている。教会は、キリストのもとに集められた共同体だ。信仰によって心を合わせる人々だ。②御前に立たせていただくこと。さばきの時は教会から始まる(17節)。神に従わない者たちは、教会にふさわしくない。終わりの時、御前に立たせていただく歩みを、教会は送る。

私たちは、地上で残された時を、神のみこころに開かれた者として歩みたい。神の時を悟り、神の時に委ねていきたい(1ペテ5:6)。